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キミが教えてくれたこと





 カイトは広いリビングの一角にお気に入りのクッションを敷き詰めて、マスターから貰った譜面を見ながら歌の練習をしていた。時計が午後3時を知らせるメロディーを流して、カイトはちょっと一息入れようと立ち上がった時だった。


 ガチャガチャと家の鍵を開ける音がして、やがてドアが開くキィ、という軽快な音がした。こんな時間にマスターが帰ってくるなんて珍しいとカイトは玄関へと出迎えに行くと、玄関にいたのはマスター一人ではなかった。
「あ、カイト。丁度良かった」
 マスターが連れているのは新型のボーカロイド、神威がくぽ。彼の存在を噂には聞いていたカイトだが、実物を目の当たりにするとまた印象がだいぶ違うものだな、と思った。
「えーと…マスター、がくぽですよね」
「ああ。だけどうちのじゃないから」
「はっ!?」
 うちのじゃない、ときた。それはこのがくぽはマスターが迎え入れたものではないということなのだろうか。とりあえずカイトは紅茶を3人分淹れてリビングへと運ぶ。そこにはソファを背もたれにして床に置いたクッションの上で胡座をかいているマスターと、マスターの向かい側に置いてあるソファに綺麗な姿勢で座っているがくぽがいる。間にあるガラステーブルにそれぞれの紅茶のカップを置いて、カイトはマスターがいるソファの空いている部分に座る。
「がくぽさん、紅茶で良かったかな?」
 どうしてもその和風な見た目のせいで煎茶とかの方が良かったかなと思ったのだが、がくぽはこくんと頷いて「ありがとうございます」とカイトに礼を述べた。
「マスター、ちょっと寛いでないでちゃんと状況説明して下さいよ」
 カイトはぺちぺちと横にいるマスターの頭を叩く。
「このがくぽは俺の先輩のボーカロイドで、3ヶ月の海外出張になったからうちで預かったんだよ」
 先輩曰く、カイトとも会わせてみたいという話だという。会うのは一向に構わないが、その様子をマスター本人が見れなければ意味がないのではとカイトは心の中で呟いた。
「ちなみに先輩ががくぽを迎えたのは一週間前」
「…まともに調教されてるんですか?」
「さあ?…ということで、俺は仕事場に戻るから、後は宜しくな」
 カップの中に残る紅茶を一気飲みしてからカイトのマスターは慌ただしくまた家から出ていってしまった。


 さて、リビングに残されたボーカロイド2人の間はどことなくぎこちない気まずい雰囲気で満たされている。カイトががくぽの様子を見遣ると、人様の家に来たのはおそらく初めてなのだろう、興味津々といった感じで視線だけがきょろきょろしている。そんな様子がちょっと可愛らしい。
「カイトさんはマスターと仲がよろしいんですね」
 やがてがくぽの視線はカイトに収まり、紅茶のカップのふちを細くて長い指でつつ…と撫でながら微笑んだ。その笑顔がどこか儚げに感じて、カイトの視線は釘付けになる。
「カイトでいいですよ。がくぽさんはマスターとはどう?」
「私の方こそがくぽとお呼び下さい。私とマスターですか…。そうですね、怒られてるときの方が多い気がします」
「ふーん…俺のときもそんな感じだった気がするな」
 ボーカロイドは歌うことに特化したアンドロイドだ。そして人間が夢見ている様に何でも出来る完璧な存在ではない。迎え入れた人間が放ったらかしにしておけば、そのボーカロイドは何を覚える訳でもないし勝手に成長する訳でもないのだ。
「がくぽ、何か歌ってみる?簡単なのもあるよ」
 カイトはリビングのチェストに仕舞ってある楽譜のファイルを取り出してぱらぱと捲ってみる。カイトが初めて歌った曲は童謡のカバーだったので、一週間くらいの調教だったら難なく歌えるだろうとカイトはその譜面をがくぽに渡す。とりあえずそれを受け取ったがくぽだったが、譜面を流し読みするとやがて声を出し始めた。
(ん…?何だ?)
 がくぽの歌を聴いてカイトは少し首をひねる。歌は確かに歌えているがひどくたどたどしい発声で、調教の跡が微塵も感じられない。
「す、すみません…!」
 そんな不審なカイトの視線に気付いたがくぽは慌てて譜面をカイトに返す。何よりもみっともない歌をカイトに聴かせてしまったという恥ずかしさから、耳朶まで真っ赤にしてうつむいた。
「もしかして、まだマスターと練習してないのかな?」
 譜面を受け取ろうとカイトが手を伸ばすと、偶然がくぽの手と重なった。その瞬間、がくぽの指先が熱を失い譜面ごとカイトの手を跳ね除ける。びっくりしたカイトががくぽの様子を伺うと、その細い身体をカタカタと震わせて瞳には涙まで浮かべていた。
「ご、ごめんなさいっ…!」
「…いや、気にしなくていいよ」
 床に散らばった譜面を拾ってファイルに戻しチェストに仕舞うと、空になっていた紅茶のカップを片付けるためにキッチンへと入っていった。シンクにカップを置くと、ふーっとカイトは息を吐く。先程のがくぽの様子は尋常ではなかった。そういえば、マスターががくぽをここへ連れてきたときも手を引くでもなく、少し間隔を空けて歩いてきたという感じだった。誰かが自分に触れるのを怖がっている。何故か?答えは多分カイトの予想通りだと思った。
がくぽはマスターからおそらくなんらかの形で虐待を受けているに違いない。マスターの元に迎えられてまだ一週間、あれだけ強烈に仕込める感情は「恐怖」だけだ。マスターに逆らうことを許さないようにプログラムされている自分たちのような存在は、たとえ暴力を振るわれてもマスターに手をあげることなど不可能なのだから。
「マスターに直談判するか」
 カイトはぐっと握り拳を作った。ものわかりの良いマスターのこと、きちんと話せば分かってくれる。



 夜になってマスターが帰宅し、3人で夕食をとった後、まずがくぽに風呂に入ってもらった。一応この家の風呂のシャワーの使い方を教えておいたので困ることはないだろう。
 マスターと2人になったところで、カイトは夕方の出来事をマスターに話した。そして放った言葉は。
「マスター、がくぽをうちで引き取れませんか」
「…うーん、出来なくはないけど…」
 カイトの話を聞いたマスターは、何となくこんなことが起きているのではと思っていたらしい。ここへ連れてくる時にがくぽの肩にぽんと手を置いただけでその手はやはり払い除けられ、がくぽは顔面蒼白になってざざっと後ずさりした。

 彼のマスターの先輩はよく言えば豪快で、悪く言えば粗暴な人だった。気に入らないことがあると人や物に当たるし、罵詈雑言も人目構わず口にするタイプで、その度に職場のフロアのムードは最悪なものに変わっていく。
 その先輩がなにやら機嫌良さそうに自分に「ボーカロイドを買った」と言った時に、音楽の趣味があるんですかと聞いたら返ってきた返事は「そんなものないけど見た目が好みだったから」というものだった。てっきり女性タイプを買ったと思っていれば、よく話を聞いてみればそれは最新型の男性型ボーカロイドで。確かに彼は美しい顔立ちをしているが、お人形を買うみたいな感覚でボーカロイドに手を出したことにはマスターも少々呆れたところに、急な出張の辞令が先輩に出たのをいいタイミングと思って「うちでがくぽ預かりますよ」と言って今日連れて帰ってきたのだ。
 そして先輩の家からがくぽを連れてくる時に取られた態度は、やはり先輩はボーカロイドをお人形扱いしていることを分からせてくれたものだった。彼らにも感情というものが存在するというのに。
「早めに先輩にコンタクト取ってみるから。カイトはがくぽに優しくしてやってくれよ」
「…どうかされました?」
 はっと2人で話し込んでいて気配を感じるのが遅れたのだが、がくぽが風呂から上がってきていた。昼間のデフォルトの服と違ってさらりと浴衣を着流している。それまで見えなかった肌が露になって妙な色香を感じさせるくらいだ。
「何でもないよ、ほらマスター!早く風呂入って寝て下さいよ。明日も早いんでしょう?」
「あ、ああ、そうするかな。カイト、がくぽのこと頼むぞ」
 そういってマスターは着替えを取りに自分の部屋へと向かっていった。カイトはおいで、とがくぽに手を振る。がくぽはそっと一歩ずつ慎重にカイトのそばへと近づくと、カイトがペットボトルの冷たいウーロン茶をグラスに注いでがくぽに差し出した。
「カイト、ありがとう。いただきます」
 温まって少々熱いくらいの身体に冷えたウーロン茶は身体に染み込む様にがくぽの喉を通り過ぎていく。がくぽがやっと緊張していた身体と表情を緩めると、カイトもつられて優しい笑みを浮かべる。
「がくぽはそうやって笑っていたらいいのに」
「えっ?」
 ふわりと、空気が揺れた。カイトの腕ががくぽの身体をそっと包み込む。がくぽは案の定また身を竦め震わせ始めた。何か言いたいようだが、声にならないようで口唇だけが上下に動いている。
「…怖い?いつもマスターにこうされてたの?」
「あ…う…っ」
 ぎゅっときつく閉じられたがくぽの瞳から涙がぽろぽろと零れ始める。ちゅ、とカイトががくぽの頬にキスをして涙を舐めとる。がくぽはカイトの口唇から逃れようと顔の向きを変えると、さらりと髪の毛が動いて項から胸元までの肌がカイトから丸見えになった。そこにあったのは、小さく散らばる紅い華と、痛々しいまでに青黒く変色した皮膚だった。
(普通の暴力から性的暴力までね…)
 とんでもない人に当たってしまったものだと、自分の腕の中のがくぽが不憫で可哀想で仕方なかった。
「平気、俺や俺のマスターはがくぽに酷いことはしないから」
 そっとがくぽの頭を撫でてやると、がくぽは少しずつ涙で言葉を詰まらせながらもぽつぽつと話し出した。
「私のマスターはっ…、何も言ってはくれず…ただ、私を殴るだけで…。夜伽もいつも突然で無理矢理で…。私が至らないから、いつもマスターを怒らせてしまう…」

 泣いて怯えるがくぽを蹂躙して、そうして己の欲だけ満たしていたのだろう。

「がくぽは何も悪くない!」
「でも、マスターはそのように言われる」
「そんなマスターは異常だ。俺達は人形じゃないだろう?意思がある。感情がある。記憶だって残る。それなのにそんな接し方をする人はボーカロイドのマスターとしてふさわしくない」
 言葉は強いけれどあくまでも優しく、がくぽに恐怖感を与えない様にカイトはがくぽを口説く。返す言葉が見つからないがくぽは大人しくカイトの言葉を聞いていた。傍目で見るカイトとカイトのマスターは信頼と愛情で結ばれている様に見えて、がくぽはとても羨ましく思っていた。
「…私も、望んでいいのでしょうか。愛されることを」
「もちろん。俺が全力でがくぽを愛してあげるから!」
「…えっ?」
 さりげなく愛の告白をしているカイトにがくぽはちょっと戸惑った。どこからそんな話になったっけと思っていると、カイトが涙で濡れたがくぽの瞼にそっとキスを落としてきた。その時、がくぽの心の中がぽっと暖かくなったのを感じた。カイトの言葉は信じられるし、カイトからの接触が嫌じゃないことに気がついたのだ。
「カイト、もう一回キスをして」
「うん、がくぽが望むなら何度でも」
 今度は2人の口唇が重なった。マスターのただ強引で喰らいつくような口付けとは全く違うそれに、がくぽはうっとりとしてああ、愛されていることの実感とはこう言うものなのだろうかと、ひどく安心したがくぽはそのままカイトにしなだれかかった。
「カイトのキスはとても暖かい…」
「愛情たっぷりだからね」
 ふふ、と2人は顔を見合わせて笑った。その時に見せたがくぽの笑顔は、とても無邪気な子どものように純真無垢な笑顔だった。



 二週間後、カイトのマスターが先輩と話を付けてくれて、晴れてがくぽはこの家に迎えられることになった。その際マスターに関するプログラムが書き換えられ、前のマスターとの記憶は消去される。それはがくぽも望んだことなので特に手続きで揉めることはなかった。
「さーて、俺の調教は厳しいからな、覚悟しておけよがくぽ」
「はい、マスター」
 喜んで!と言わんばかりに嬉しそうに笑うがくぽを見ていると、引き取れて本当に良かったとマスターもカイトも思う。まだその身体には傷跡が残っているけれど、時間とともに消えていってくれるだろう。
「カイト、お前はあんまりがくぽにがっつくなよー。嫌われるぞ?」
「うっ…!マスター、知っていたんですか…」
 プログラムの書き換え云々の作業の際にがくぽは全裸になっていたので、全身に残る痣も、カイトが付けたキスマークもマスターはしっかりと目に焼き付けていたのである。がくぽを家に連れてきてから何もなければ先輩が付けたキスマークは薄くなっていって消えているはず。薄くなったキスマークとは別にまだくっきりと存在を主張しているキスマークがかなりの量で認められた。マスターはがくぽに性的な意味では指1本も触れていないから、これはカイトの仕業だということがあっさり分かってしまったのである。
「全くだ!ちょっと気を許すと迫ってくるから困る」
 ついでにがくぽの口調も少し変わった。これもプログラムが書き換えられた影響らしい。多分、こっちの方がデフォルトの状態に近いのだろう。あの異常なまでに丁寧だった態度と言葉はきっと前のマスターがそういう風に振る舞えと教え込んでいたせいだったと思われる。
「3日に1日で我慢してるのに…がくぽだってノリノリのくせに…」
 カイトがそう言っていじけてみせると、がくぽから額に強烈なチョップの刑を受ける。確かにカイトとのセックスは気持ちいいのでついついがくぽも大胆になってしまったりするのだが、そこをマスターには決して知られたくはないのががくぽとしての気持ちなのだ。
「まあ、2人の仲が良いのは俺的にも嬉しいことだ」
 マスターがカイトとがくぽの頭を鷲掴みにしてぐりぐりと撫で回す。


 さあ始めましょう、新しい生活を。



08/10/02

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