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パンドラの箱庭

   ※マスター死にネタです。苦手な方は戻って下さい。



 朝になっても起きてこないがくぽが心配になって俺は彼の部屋をそっと覗いてみたんだ。
 そうしたら、がくぽは布団の中に潜り込んで泣いていた。
 いつも気丈に振る舞うがくぽが泣いているなんて珍しいことだと思って、その時はそっとドアを閉じてひとりにしてあげた。涙が止まらないほどよっぽどのことがあったんだろうと思ったから。出来れば話を聞いてその涙を俺が止められれば一番いいんだろうけど、それはもう少しがくぽが落ち着いてからでも遅くない。
 その日1日がくぽは部屋から出ようとしなかった。ごはんだよ、と声をかけても全然聞こえてないみたいでただひたすら泣いていた。泣いて、泣きつかれて眠って、夢にうなされて、そしてまた目覚めては泣いていた。仕方がないので俺はひとりで食事をとって家事をこなしつつ、五線譜をぱらぱらと見つめながら歌を歌っていた。
 夜が更けて、そっとがくぽの様子を確かめる。泣き声は聞こえなくて、泣き疲れて眠った様子で規則的な浅い呼吸を繰り返していた。俺は彼を起こさない様にそっと足を忍ばせてがくぽの枕元に跪いた。がくぽの顔を覗き見ればその美しく整った顔の瞼は腫れ上がってしまっている。これでは起きた時に目を開けるのが辛いだろうと俺はまた足音を立てない様にそろりそろりと部屋を出ると、洗面器の中に水を張って適度に氷を入れ、そこにハンドタオルを入れたものを抱えてまたがくぽの部屋に戻った。枕元に洗面器を置いて、濡れたハンドタオルをよく絞ってからがくぽの瞼の上にそっと乗せてやると、その冷たい刺激でがくぽの意識が眠りの底から現実に呼び起こされてしまったようでうっすらとがくぽが目を開いた。
「ごめんね、起こしちゃった。でも冷やした方がいいよ。真っ赤だもん」
 俺がそっとがくぽの額を撫でてやる。彼は視線を俺に定めずに虚空を彷徨わせていると、やがてその碧い色の瞳からはまた涙が溢れてこぼれ出したので、そっと人差し指でその涙を拭ってやった。生暖かいその涙に濡れた自分の人差し指をぺろりと舐めてみる。人間の涙は塩辛いと言うけれど、俺達ボーカロイド…アンドロイドの涙はなんの味もしなかった。ああ、そういえば俺の涙もただの水だったことに以前驚いたことがあったっけ。
「カイト…」
 がくぽの艶やかな声は掠れていた。一日中泣いていればそれも当然のことだろう。それに俺はようやくがくぽの視界に自分の存在が出来たことが嬉しくて、がくぽに向かってにっこりと笑ってみせた。むずがって泣く赤ん坊に母親がそうする様に。
「飲み水も持ってくれば良かったね」
 水で喉を潤せば、いつものがくぽの声が戻るだろう。そういえば、丸一日食事もとっていないのだがくぽは。おにぎりかなにか作ってきてやれば良かったと、そんなことが後からたくさん思いついて俺は意外に気が利かないのだなぁとちょっとへこんだ。
「水などいらぬ…!」
 がくぽは力が入らない細い腕で額に置いていた俺の腕を押しのけて、顔を俺から逸らす。どうしてこっちを向いてくれないの?がくぽ。俺の顔を見てよ。俺はがくぽのつれない態度に悲しくなって、つい無理矢理がくぽの顔を自分の方へと向けさせた。君のその綺麗な顔を俺はずっと見ていたいんだ。君は俺だけを見ていたらいいんだ。
 がくぽは途端に眉を吊り上げてぎり、と歯を噛み締めて俺の顔を真っ直ぐ睨みつけてくる。どうして怒ってるの?俺にはがくぽの激情が分からなかった。ただただ愛おしそうに俺はがくぽのことを見つめていたらがくぽはふんわりと桜色で彩られた唇を開き、俺に向かってこんなことを言った。

「マスターが…亡くなられたというのに!なぜ貴様は笑っていられるのだ!」

 ああ、そうか。
 だからがくぽはずっと泣いていたのか。そんなに泣き伏せってしまう程にマスターのことが好きだったの?



 昨日の夜に家にかかってきた電話を受け取ったのは俺で、それはとある病院からだった。独り身で両親とは既に死別していたマスターにとって家族と呼べるのは俺とがくぽ、2人のボーカロイドだけ。急いで病院に2人で駆けつけて対面したのは、霊安室に横たわった冷たい身体のマスターだった。その場には警察もいて、詳しく話を聞いてみるとマスターは飲酒運転の車に撥ねられ全身を強く打ち付け、救急車が事故現場に着いた時にはもうマスターの心臓は止まってしまっていたのだと言われた。本人かどうか確認してくれと言われ、顔にかかった布を捲ると、目を閉じたマスターはまるで眠っているだけのような顔をしていた。がくぽは俺の横に立っていたが、マスターの顔を見るなり自力では立てなくなってしまったほどに身体をがくがくと震わせて、俺の腕に強く掴まったままマスターの遺体を見つめていた。
 マスターの本人確認が済み次第その遺体は霊柩車に乗せられて火葬場へと運ばれた。俺達はただ周りの人達がやってくれる様子をただじっと見つめながらそばにいることしか出来なかった。俺やがくぽよりも身長の高かったマスターは、焼かれて灰になり骨だけになるとこんなにも小さくなるのかと不思議に思ったことは覚えている。
 マスターの骨が収められた骨壺を入れた箱を抱えて、夜が明ける頃に俺達はこの家へ帰ってきた。帰ってきた途端にがくぽは上がり框を駆け上がり自分の部屋に篭ってしまったのだった。俺はマスターの部屋へ入り、朝日が差し込む窓のそばに置かれていた背の低いチェストの上に箱を置いた。本当なら仏壇なりに置くのが正しいのだろうが、あまりに突然のことだったのでそれは後々整えてあげればいいと思う。
 そして一日が経ち、がくぽは涙で暮れて、俺は何事もなかったかの様に1日を過ごした。本当に先程まで「マスターの帰り遅いな」などと呑気に思っていたのである。

 がくぽは真っ正面からマスターの死を受け止めて泣くことしか出来ず、俺はきっと現実から逃避することで何とか自我を保っていたんだ。

「泣いてもマスターは帰ってこないよ」
「…そんなこと、言われずとも…分かっておる…っ」
 俺はそっとがくぽの身体を抱き起こした。1日食べていないだけでなんだか随分細くなった様に感じるのは俺の気のせいだろう。アンドロイドは人間と違い、太ったり痩せたりという現象は起きない。
「マスターが…いないボーカロイドなど…存在する意味がない」
 このまま自分も儚くなってしまいたい、とがくぽは俺の腕の中で呟いた。それは駄目だよ、と俺はがくぽを説き伏せる。マスターが生きた証が自分達だ。マスターが教えてくれたこと、歌わせてくれた歌、それらを記憶しているのは自分達なのだから。この身体が本当の意味で朽ち果て、記憶回路もエラーを起こし初期化されてしまうその時まで俺達はこの世界に存在していかなければ、マスターの魂もきっと浮かばれない。
 そう言うとがくぽは黙りこくってしまった。しかし彼の目を見れば分かる、俺の言うことに諭されたんだということが。
  この世に2人きりになれた喜びの方が大きいのは何故だろう。しばらくはマスターを恋い慕って泣いてもいい。けれど時間が経てばいずれは俺とがくぽの2人しかここにはいないことに気付くだろう。
 マスターのことはどんなに時間と手間がかかっても忘れさせてあげるから、俺と2人で生きていこうよ、がくほ。



08/10/18

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