男所帯のこのマンションの部屋にあるベランダには、カイトが買ってきた小さな花がプランターに植えられている。近くの花屋で売られていたその花達は、今では買ってきたカイトすらも名前を忘れてしまった。カイトが花達に水をやる為にベランダへと続くガラス戸を開け放していたところ、ふらふらと一匹の蝶が迷い込んできた。 「何やら花の香りがする」 薄紫色の髪の毛をさらさらと風に揺らしながら、蝶はカイトの元へと寄ってくる。その蝶──がくぽに気付いたカイトはおいでおいでと手を振ると、身体を少しずらしてがくぽに香りの正体をみせてやる。 「ほう、これか…ずっとここにあるものなのか?」 自分がこの家に迎えられてから結構時間が経っているのに、この花達の存在を知ったのはがくぽには今日が初めてのことだった。 「うん、一年くらい前に俺が買ってきたんだ」 カイトはマスターがいない間の退屈な時間を減らそうと何かないものかと思って本屋に行ってみたところ偶然ガーデニングの本が目に入り、ぱらぱらと読んでみたら本格的なものでなくてもちょっとしたスペースがあれば出来る小さなプランターに、いくつかの花の苗を植えて育てるというそのお手軽さが気に入り、早速道具を揃えてこうやって毎日水をやってみたり花の咲く様子なんかを眺めていたという。 「どう? この花なんかがくぽに似合うよ」 紫色の花弁を可愛らしく広げたその花は、確か菫の一種だったと記憶している。がくぽはそれをじっと眺めていると身体を屈ませてそっとその花に顔を近づけた。目を閉じて香りを楽しんでいるのだろう。がくぽの長い睫毛が彼の白い肌に影を落としていて、カイトはまるで一枚の絵だとうっとりとその様子を眺めていた。 「良い香りがする、やはり花は美しいものだ」 すっとがくぽが立ち上がる、その動作すらも切り取った一枚絵の様に美しく凛としていて隙がない。カイトはそんながくぽを抱きしめたい衝動に駆られたが、がくぽは時と場所を選ばない過剰なスキンシップはとても嫌がるのでぐっと握り拳を作って堪えた。ここで己の欲望に従えば嫌われることは明らかなのだから。 「カイト、そろそろ中に入らねば日が暮れてきたぞ」 さぁっと2人の肌を撫でる様に吹く風が冷たくなっている。がくぽが握りしめたカイトの手は水を触っていたせいもあって随分と冷たく感じられた。 2人がベランダからリビングへと戻ると、夕陽が2人の影をフローリングの床の上に長く伸ばしている。カイトがちらりとがくぽの顔を覗き見れば、がくぽの白い肌は夕陽の色に柔らかく染まっていた。暖かみを感じさせるとともに儚さも混じって見えて、カイトの心は切なく痛む。 「日が短くなってきたな」 カーテンを閉めながらぽつりとカイトは呟いた。 「季節は変わっていくのだから、仕方なかろう」 がくぽにしてみれば、今が初めての秋で、やがて冬を迎えることになる。都会の冬は寒くて空気が乾いていて風が強いばかりで、季節を美しく彩る雪は昨今降るかどうかも分からないといった状況だ。おそらくがくぽが望んでいるような冬はここでは体験出来ないだろう。 まあ、それは言わないでおくのががくぽへのせめてもの思いやりでもありカイトの意地悪だ。やがて本当に冬になって、がくぽがその身を以て体験すればいいのだから。 「そろそろマスターが帰ってくるね」 「もうそんな時間なのか」 時計を見ればいつもの帰宅時間が迫っていた。がくぽはいそいそと夕食を作る準備を始める。カイトもそれに続いてキッチンへと向かう。料理はがくぽが来た当初はカイトのみの仕事だったが、がくぽが自分も作れる様になりたいと言い出した為にこうして毎日2人でキッチンに立つ。もちろん主導権は慣れているカイトにあって、がくぽはアシスタントみたいなものだ。 ──マスターに私の料理も食べて欲しい。 がくぽの望みはそれだけなのだ。その思いの純粋さゆえに少しだけカイトはいつも焼きもちを焼いてしまう。がくぽがマスターに尽くしたいと思うのは別に恋愛感情から来ている訳ではないとカイトも頭の中では分かっている。けれども心の中ではマスターはずるいと嫉妬の念が燃える。 マスターはマスターというだけでがくぽをどのようにでも出来てしまう。カイトがじっと獲物を狙うタイミングを伺いながら毎日を過ごしているのにそれをあっさりと崩すことが出来るのだ。幸いながら、マスターにそのつもりがなさそうなので今のところはただの焼きもち程度で済んでいるが、もしマスターとがくぽの間に何かがあったら、カイトだってがくぽに対して遠慮している余裕など吹き飛んでしまうだろう。 「カイト?」 がくぽの澄んだアルトの声で名を呼ばれてカイトは考え事から我に帰った。なまじ狭い場所にくっついて立っているものだから、ついつい意識ががくぽへの恋慕の思いに耽ってしまう。 「具合が悪いのなら、部屋で休まれてはどうか。あとは、これを煮込むだけであろう?」 心配そうに顔を覗き込んでくるがくぽに、カイトは大丈夫だよと笑って返す。がくぽは納得したという感じではなく、ちょっと首を捻ってカイトの「大丈夫」という言葉をとりあえず信じようとしている。そこまで険しい顔でもしていたのかなと逆にカイトが不安になってしまった。 料理が一段落をして、がくぽがお茶を2人分淹れてリビングのテーブルへ持ってきた。カイトにひとつ湯呑みを渡すと、がくぽは自分の湯呑みを口元まで持っていってふーふーと熱を冷ましている。その様子をカイトは口元を緩めて眺めていたら、がくぽがそれに気付いてちょっとムッとした表情を作ると、まだ冷めていないお茶をずずっと啜った。案の定舌の先を火傷したらしく、カイトに分からない様に表情を変えず湯呑みをテーブルの上に戻すと、がくぽの部屋着である浴衣の裾で口元を隠して何やらやっているようだ。 「がくほ、舌火傷したんでしょう」 がくぽの様子があんまりにも可愛らしくて、くくっと思わず声を漏らして笑ってしまったら、がくぽはご機嫌斜めになってしまったようである。 「うう、五月蝿い!人が親切に茶を淹れてやったというのに」 これだけ言うのだけで一苦労しているのだ。それに、喋らなければダメージが増えることもないのに律儀に言い返してくる。がくぽを見遣ればそのガラス玉のような碧い瞳には涙が浮かんでいた。 カイトは紅茶は淹れたてが一番美味しいからすぐに口にするが、日本茶は淹れたては味がよく分からないので少し間を置いて、少し冷めて飲みやすくなった頃に口を付ける。こんなやり取りでいい具合に冷めたお茶をカイトは一口含むと、がくぽがカイトに問いかけた。 「カイトは最近ぼーっとしていることが多いようだが、何か悩みでもあるのか?私で良ければ相談に乗るが」 意外、とカイトは心の中で囁く。がくぽがそんなカイトの変化が分かるほどにカイトを気にかけていたことがとても意外だった。確かにマスターがいない間は2人きりになる時間が多いからありえなくもないことだけれど、がくぽからそんな素振りは全く垣間見えなかったので悶々とマスターに嫉妬してみたりしていたのだ。 がくぽはいつもマスターがいる時はマスターに犬か猫みたいにべったりくっついていて、マスターもそんながくぽが可愛いのか妙に態度が甘かったりもするしで少し離れた場所からそれを見ていたカイトが面白くないと思っていたのを、がくぽは分かっていたのかもしれない。 「悩みなら、そりゃあるけど」 「それは私のアドバイスでどうにかなることか?」 ずずっとがくぽが身体を床に滑らせてカイトのそばに寄った。ふわり、と不思議な薫りががくぽから漂う。それはきっと甘い甘い、禁断の蜜の薫り。 カイトはそっと右手でがくぽの頬を包み込み、彼の耳朶にちろりと舌を這わせてから囁く。突然耳朶を舐められたがくぽは驚いて身体をびくりと震わせた。 「俺はがくぽのことが好きなんだ」 カイトがそう言うと、がくぽは言葉の正しい意味を察した様で、途端に顔が赤く染まった。触れている手の平からがくぽの顔に熱が帯びたことがはっきり分かる。 「がくぽはどう? 俺のこと好き? 嫌い?」 それまで合わさっていたがくぽからの視線が逸らされる。伏せた目には動揺の色が浮かんでいた。無理もない、こんな唐突に愛の告白をされたら誰だって戸惑ってしまうだろう。 「そういう聞き方はずるいと思うのだが…」 答えを二者択一にされてしまったがくぽはカイトに抗議する。好きにも嫌いにも色々と意味がある。その辺の含みを一切削除されてしまったがくぽにはもう逃げ場はなくなってしまった。 「私は、カイトのことす、好き…だぞ」 「……え?」 か細くひねり出された声に自分の耳を疑うカイト。だってこんな風に上手くいくとは誰も思わないだろうから。 「がくぽ、もう一回言って」 「だ、たからっ、カイトのことが好きだと言っておる!カイトを嫌う理由などない!」 がくぽが照れ隠しにぺちぺちと両手でカイトの頭を叩く。どんなに叩かれようが、カイトは笑顔を崩さずにがくぽの背にそろそろと手を伸ばして、ぎゅっとがくぽの細い身体を懐に抱いた。 「ぎゃっ!そ、それ以上何かしようとしたらカイトを嫌う!よいな?」 「えー、今はどこまでなら許してくれるの」 「そ、それはだなっ」 完全にパニック状態のがくぽを何とかなだめてカイトはがくぽに触れることの許しを乞う。好き合っていると分かっているのに何もさせてもらえないのは流石にちょっと辛い。 「ねえがくぽ、キスはまだ駄目?」 カイトは捨てられてた子犬の様に瞳を潤ませて、がくぽの心情にストレートに訴えることにした。じつはがくぽはこういうシチュエーションにとても弱い。テレビでそういうシーンを見ては涙している姿をよく見るので結構有効な作戦だとカイトは踏んだ。 「あ…う…やっぱりカイトはずるい…」 そう言ってがくぽはぎゅっと瞳を閉じた。それを許しの証だとカイトは見て、そっとがくぽの口唇に自分の口唇を重ね合わせた。長く口唇を塞いでいると苦しいのか、がくぽが酸素を取り込む為に少し唇を開いたその瞬間を逃さずにカイトはするりとがくぽの口内に自分の舌を差し入れる。 「ん、ふっ…!」 カイトががくぽの舌を絡めとれば、がくぽの口からは呼吸とともにささやかな喘ぎ声も零れ落ちる。名残惜しそうにカイトががくぽの口唇を解放してやると、がくぽの艶やかに紅色で縁取られた口唇が唾液で濡れて妖しく光る。 「こっ、これ以上はまだ駄目だ!」 「了解しました。ご馳走さま」 カイトがにこにこと余りにも嬉しそうだったので、がくぽはたくさんあった言いたいことをぐっと飲み込んだ。幸せに浸っているカイトにあれこれと文句をつけるのは無粋というものだ。 翌日、カイトが花の苗を買った花屋へと2人で訪れた。がくぽは店員に手入れの仕方などを教えてもらって、ひとつの花の苗を買った。それはカイトの髪の色に近い青い花をつけるという。先日にプランターの中で見たがくぽの髪の色と似たあの紫色の花をつける菫の花の隣に植えようとがくぽが考えたのだ。家に帰って早速植え替えてやると、青い花の苗と紫の花が秋の風にそよいで揺れている。 この青い花が苗から育ちやがては蕾を付けて咲く様に、2人が思い合う恋心も育っていけばいい。カイトには少々我慢を強いるが、がくぽだって突然全てをカイトに捧げろと言われても無理な話だ。 「枯れない様にしないとな」 がくぽはちょんと花の苗をつつく。お前は私なのだから、私とともに咲くのだからと。 |