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運命は恋するものに






 深く鬱蒼とした森を抜けると、大きな洋館がぽつりと建っていた。白を基調としているその建物はその壁に蔦を這わせていてとても年代物の様に見受けられる。そしてその洋館の主人は年若い青年ただ一人、後はたった2人の使用人。そしてこの館にはもう一人、人と似ていて人でないものがひとり、青年の部屋の片隅で佇んでいる。長く伸ばされた薄紫の髪をさらさらと部屋に入り込む風に遊ばせて、アンティークドールさながらの白磁のような肌を持ち、碧色のグラスアイのような瞳は青年の姿を映している。
「今日はご気分はいかがですか?マスター」
 それは青年を「マスター」と呼び、部屋の隅から青年のベッドのそばへと一人で歩いてくる。ベッドの縁へとかけられたそれの手の平をそっと青年は握り、優しい笑顔を向ける。
「とてもいいよ。もう少し日が傾いたら庭を散歩しよう、がくぽ」
「はい」
 ──がくぽ。それが人に似ていて人と違うものの名前。人形と呼ぶには人に近く、人間と呼ぶには人とかなりかけ離れている存在。こうしてがくぽ自身の意思で動くことも出来るが、がくぽを動かす中枢機能に登録された「マスター」に対しては従順であり決して逆らうことはない。そして、がくぽには「歌を覚えて奏でることに長けている」という最大の特徴があった。もちろん教えなければデータの蓄積はされないのだが、幸いこの家には音楽を愛した青年の両親が残してくれた膨大な量のレコードや音源があり、専用の鑑賞室もある。マスターが眠っている時にはここに篭りがくぽは毎日少しずつ音楽のデータを蓄積していく。それらのデータはマスターの子守唄やお茶の時間のバックグラウンドミュージックになったりするのだ。


 マスターはまだ子どもだった頃に両親とともに車の事故に遭った。マスターは母親が庇ってくれて命こそ取り留めたものの、足が若干不自由になってしまった。両親を失った悲しみに心を閉ざしたマスターはリハビリを拒否し続けて動く足も上手く動かなくなってしまった。今ではベッドの上で本を読んだり窓から外を眺めたりとあまり外に出ることもなく静かに過ごす毎日を送っていた。がくぽが来るまでは。
 がくぽの存在は周りが思った以上にマスターにとって大きなものとなり、話し相手になるだけではなく、共に外へと出る様になった。私有地なので他に誰がいるわけでもないのだが、それはとてもマスターの気分転換になり少しずつ自力で歩く努力も始めたのだ。
「マスター、そろそろ参りましょうか」
 がくぽが車椅子をベッドに横付けする。マスターは転ばない様に注意しながらそろそろと車椅子に自分の身体を移すと、がくぽが上からストールをマスターの肩に掛けた。
「ありがとう」
 マスターがにっこりとがくぽに向けて笑うと、がくぽも目を細めて微笑む。マスターに喜ばれるのはがくぽにとって至上の幸福である。そしてそんながくぽの笑顔をああ美しいな、とマスターは思う。がくぽがいなかったら、何かを見て美しいと思うことが今の自分に出来ただろうか。初めはただの人形だと思っていたのに…今では、がくぽの存在が自分にとって心の拠り所となっている。この出会いはきっと互いに必然だったのだ。


 がくぽが車椅子を押しながら庭の石畳の上を2人で進んでいく、石畳は段差が割とあるので車椅子が進むには少し不便だが、石畳を抜けたところにある大きな噴水が設置された広場は柔らかい芝に覆われていて転んでもそれほどは痛くない。マスターの歩行練習もいつもそこで行うことにしている。
「ああ、もう銀杏が石畳を覆う季節なんだね」
 ひらり、と石畳沿いに植えられている紅葉した木々から美しく黄色に染まった銀杏の葉がマスターの膝の上に舞い落ちてきた。それを摘まみ上げてくるくると指で回している。
「青く茂っていた葉がこんな風に色を変えるなんて不思議ですね」
「がくぽは去年も同じことを言った」
「そうでしたか…よく覚えていらっしゃいますね」
「がくぽのことだからね」
 マスターは車椅子を押すがくぽの左手をぐいと引っ張ると、がくぽの手の甲にキスをする。がくぽはちょっとだけ頬を赤く染めて、マスターを見つめていた。カタカタとそのままゆっくり車椅子を押していくと、噴水広場に出る。ここの芝生は今でも青い。この芝生の色と広葉樹の色の違いが今でも少しがくぽを惑わせるのだ。
 がくぽは車椅子の後ろ側にあるポケットの中からピクニックシートを木陰に広げ、マスターの手を取り自身が杖となってゆっくり一歩ずつ歩みを進めるマスターを支え、ゆっくりとシートの上にマスターの身体を降ろす。そしてその隣にほんの少し距離をあけて自分も座った。その行動にくすくすとマスターが笑う。
「どうして距離を開けるの?」
「マスターとぴったりくっつくなんて出来ません」
「僕はがくぽとぴったりくっつきたいんだけどな」
 そう、恋人達が寄り添う様に。
「マスターがそうおっしゃるのでしたら…間を詰めます」
 腰を浮かせて動こうとしたがくぽの肩にマスターは手を乗せてがくぽの行動を一旦制した。どうしたのだろう、とがくぽがどうしていいのか戸惑っていると、マスターはがくぽと視線を合わせて問う。
「がくぽは僕とそうして少し離れていたいの?それともすぐ隣にいたいと思うの?」
「えっと…?」
「マスターが命じたから、とかじゃなくて。がくぽがどうしたいのか僕は知りたい」
 マスターの瞳はとても真剣で、がくぽを酷く惑わせた。どう応えたら正解なんだろうと初めは一生懸命考えたが、マスターは「がくぽ自身がどう思っているか」と聞いているわけでマスターの思う様に応えるというのはマスターの意図から外れていることに気付く。しばらくの空白があって、がくぽはすすっと身体を動かしマスターの肩と自分の肩をぴったりとくっつける。マスターの顔を見れば、それはそれは嬉しそうに笑っていた。
「これでいいの?」
 マスターは再びがくぽに問う。がくぽはもう迷わなかった。
「私はずっとマスターのお側にいたいです…お許しをいただけるのならば」
 顔がぽっと火照るのを感じる。しかしこれががくぽの本音でありマスターへの答えだった。
「ずっと僕の隣にいて。片時も離れることを許しません」
 そう言ってマスターは隣のがくぽに抱きつくと、その桜色に艶めくがくぽの口唇に自分の口唇を重ねる。それは触れるだけの口付けだったけれどもがくぽを一生繋いでおくには十分な行為。
 ふふ、と悪戯っ子の様にマスターは笑うと晴れ渡る空に向かって叫んだ。
「がくぽ、歌って!」
 僕たちの為の、愛の歌を。



08/10/31

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