VOCALOID


Sweet Junk





 マスターは毎朝7時にこの部屋にやってくる。低血圧で朝は弱いはずなのに、いつも身なりをきちんと整えてここへ来て、ベランダへと続く硝子戸にかけられているカーテンを思い切り開いて、少しだけ硝子戸を開けて部屋の空気を入れ替える。
「おはようがくぽ。ほら見てご覧、今日はとても綺麗に晴れているよ」
 にこりと満足そうに笑うマスター。ああ、本当に硝子戸の向こうは美しい青が広がっている。
 そしてマスターは私の為にと買ってくれた鏡台に置いてある柘植で出来た櫛と椿油の入った小さなボトルを持ち、私の身体を起き上がらせると薄紫色の腰の下まである私の髪の毛に椿油を少し吹きかけてから丁寧に上から下へと櫛で髪を梳いてくれる。
 その仕草から私の中へマスターの愛情が流れ込んできて、私はとても嬉しくなる。何か暖かいものがぽっと生まれる、そんな感覚をいつも感じるのだ。
「がくぽの髪の毛、今日もとても綺麗になったよ。ほら、さらさら」
 戯れに私の髪の毛を少量持ち上げて、それを少しずつ手の中から開放していく。細い髪の毛が1本1本はっきりと分かるような、全く絡まずに砂粒のように自分の手の平から流れ落ちていく私の髪の毛を見て満足そうにマスターは笑う。
 ありがとう、と呟くとマスターはすっと私の前髪を持ち上げ、額に触れるだけの口付けを落とす。人間の皮膚よりも冷たい温度で保たれている私の肌が、マスターに触れられたところだけ熱を持つのが分かる。
 まるで火傷をしたみたいな、そんな痛みも伴って。
 このように毎朝私に構うものだからマスターはいつも出勤時間ギリギリに家を飛び出していく。私の部屋から慌ただしく出ていくマスターの背中をやれやれと見送った後は、長い静寂の時間が訪れるのだ。







 私がマスターの元へ迎えられたのは暑さがやっと引いた秋の入り口の頃だった。この部屋のベッドに横たわっていた私の中枢システムにキュンと起動命令信号が送られ、ゆっくり瞼を開けると一人の男性が恐る恐る、と言った表情を浮かべて私の顔を覗き込んでいた。
「えーと…がくぽ?起きた?」
 その男性こそが私のマスターだった。
 アンドロイド、ヒューマノイド、意味の多少の違いはあれども人と同じ形をした機械人形はさほど珍しくない程度に普及している時代、初めはただのCDサイズに収められていたデータだったと言う私達ボーカロイドも、今ではこうして初めから人を模した形で生み出されている。
 人と同じ形になることでより親近感が湧き、調整などが分かりやすい形でマスターに伝わり、またマスターの要求にもボーカロイドが受け取りやすくなると言うメリットがあったのだ。ただ、サイズが大きくなってしまったということで場所をとるというデメリットも生まれてしまったが。
「…貴方が、私のマスター…」
 マスターは私が言葉を発したことに酷く驚いた様で、私の側を離れて向かい側の壁までざっと身を引かせた。今思うとなかなかに失礼な対応だと思う。ゆっくりと自分の身体を起こして辺りを見回した。広くはないけれど狭くもない、家具も何も置いてない簡素な部屋だった。硝子戸から見える景色はなかなかに美しいもので、それはとても気に入った。

「マスター、迎えて下さりありがとうございます。神威がくぽです」

 寝かされていたベッドから降りてフローリングの床に正座してお辞儀をした。顔を起こせば、まだ何となくおっかなびっくりといった感じで私に近づいたマスターと視線かぶつかる。なんとなく視線が外せないままでいると、マスターがそっと私の頬に指先を滑らせた。成人男性らしい指の間接のゴツゴツとした感覚が伝わる。
「うーん、寝ている時にも触ったけどやっぱり滑らかだなぁ」
「……マスターは、一体私に何をなさっていたのですか」
 私は肌の露出している部分は殆どないと言っていい。基本型として着せられている服が全身を覆うインナーと、着物を元にデザインされた羽織と袴。手首から先と、顔しか肌は見えないのだ。
「ねえ、笑ってよ」
 突然のマスターの言葉に私は若干戸惑った。笑えと言われても別に可笑しいことは何もないし、マスターが望む「笑み」がどんなものなのかが良く分からなかったから。少しの時間を空けて必死に私なりに考えて、にこりと笑顔を作ってみせた。満面の笑みとまではいかない、ちょっとぎこちなさが残る初めての「笑顔」を。すると、マスターはほんの少しだけ顔を赤らめてから私に笑顔を返した。
「がくぽの笑顔、とても綺麗だね」
 そんな褒め言葉をいただいて私は良かった、マスターに喜んでもらえたと安堵の気持ちとともに喜びというものも実感する。
 そうか、これがマスターとボーカロイドという関係なのだとはっきり分かったのはこの時だった。


 私はこれでも精密機械なので管理が結構面倒なのである。データのバックアップは自動で行うが、極端な寒さや暑さには耐えられないというか、動けなくなるようにプログラムされているのだ。暑さは特に問題で、中枢回路が熱暴走を起こしてしまい破壊されてしまうのを防ぐ為に、体内温度が32℃を越えると強制的にスリープモードのスイッチが入り、内部の冷却に全システムが集中するようになる。マスターはそのことを知らなかったらしく、初めて迎えた真夏日に突然私がばったり倒れてしまい何の反応もしなくなったので壊れてしまったのではと気が気じゃなかったと言っていた。部屋にエアコンを入れてしばらくしたら私がスリープモードから解除されて動き出したのを見てほっとしたマスターは、その反動なのか貧血を起こして今度はマスターが倒れてしまい私がびっくりしてオロオロとしてしまったものだ。
「マスター、私が起動していられる気温はちゃんと説明書に書いてあったはずです。何故読まれなかったのですか」
 と、私が少しだけ怒った表情を作って問いつめてみればしれっと悪気の無さそうなマスターの発言。
「がくぽの説明書って、pdfファイルですっごいページ数あるんだよ?あれ全部読んでたらがくぽの起動はあと一週間遅れてたね」
 ずずっと私の顔に自分の顔を寄せて迫力で押してきた。私はマスターの肩を掴んで私から離れるようにマスターの顔を押しのけ、重要なことはちゃんと調べてから起動していただかないと本当に壊れますよ、と念を押した。その後マスターはブツブツ言いながらもノートパソコンを開いて、私の右耳のヘッドセットから1本のケーブルを引き出すとノートパソコンのジャックに繋いで説明書のpdfファイルを開きちょこちょこと読み始める。ちょこっとだけ自分でもその説明書を見てみたが、確かにページ数の数がすごいことになっていて人を模した機械というのは使う方も色々と面倒なのだなとちょっとだけマスターの気持ちが理解出来た。
 私の口から警告音なりが発しないのは何故なのだろう。そうすればマスターにも分かりやすいのに。


 その事件以外は至って平和と言って間違いない。これといった問題も起きずに2人きりの生活を送っていた。マスターは私を家に迎えたことでそれまでさほど興味のなかった音楽を学び始め、私に色々と教えてくれた。
「マスターは音楽に通じている訳でもないのに何故ボーカロイドである私を買ったのですか?」
 マスターがパソコンでオケをいじりながら四苦八苦している様子を見て私はそう尋ねてみた。するとマスターは私の額にぐいっと人差し指の先を押し付けて
「だって、がくぽは面白そうだったから」
 と、照れ臭そうな顔をした。
 面白そう。それは褒め言葉なのか分からなかったけれど、大事に扱われているし気に入ってもらえてると信じていいと私は自分を納得させて、そうですかとだけ答える。
 マスターは歌い方はもとより「感情」というものに重点を置いていた。私達ボーカロイドに埋め込まれた擬似的な「感情データ」をこれでもかというほど引っ張り出すような、そんなレッスンが多かった。ただ音符を追いかけて譜面通りに歌うのではなく、愛の歌ならば愛しいと思う気持ちを乗せて。悲しい歌ならば悲しみを旋律に乗せて。基礎としてある感情データは学習機能によってそれをマスターの好みに合うように上書きしていく。そうして私はマスターの手によってボーカロイドとしても、人に近しい存在としても育てられてきたのだ。

 そんな理想的なマスターとボーカロイドの関係が崩れ始めたのはいつだったのか。


 厳しい寒さの冬を越え、桜の花びらが美しく風に乗って散り、じりじりと太陽が全てのものを乾涸びさせるような時期を越え、私がマスターの元へ来て一年が過ぎた頃だろうか。
 すっかり夜も更けて、自分の部屋でマスターが買い与えてくれた鏡台の前に座って自分の髪を櫛で梳いて寝る準備をしていた時、カチャリとドアノブが回る音がした。三面鏡になっている鏡には部屋のドアが映っているので私はそのまま体の向きを変えずに鏡だけを見ていると、やがてドアが開いてマスターが部屋へと入ってきた。ほんの少し足取りがおぼつかない様子、さては酒に酔われてるなと思って椅子から立ち上がろうとしたらその行動は上から覆い被さってきたマスターによって遮られる。後ろから抱きしめられている状態、マスターも私もどちらも何も言わない沈黙が続いた。
「……すき」
 かすかに聞き取れたマスターの言葉、好きといわれて嬉しくならないはずがない、私はにっこり笑って「はい」と返す。
 私は分かっていなかったのだ、その「好き」の言葉の意味を。
 驚くほどの力でマスターは私の手首を掴み、私の身体をベッドへと投げる。ベッドのスプリングが軋んで音を出し、私の身体を受け止める。ぽかんと目を丸くして天井を仰ぎ見ていると、やがて視界にはマスターの顔が入ってきた。
「マス…っ!」
 マスターの手の平は私の両頬を包み顔を固定させて、私の唇にぐいと自分の唇を押し付けるように重ねる。幾度か角度を変えて私の唇を啄むようにしていると思ったら、薄く開いた私の唇の隙間からマスターの舌が滑り込んできて2人の舌が私の口腔内で絡まる。
「…ん、うっ」
 意図せず漏れてしまった熱が篭った私の吐息がマスターの鼓膜を震わせると、はっと我に返った様でマスターは私の身体の上から飛び退いた。私はその行為の余韻でくらくらしつつも自由になった身体を上半身だけ起こしてマスターを見ていると、マスターは顔を真っ赤にして何も言わずに私の部屋から走り去ってしまった。

 何だったのだろう、今のは。

 口角から顎へと伝う唾液を拭く為に自分の指で自分の唇に触れた時、そこはとても熱く火照っていて。その熱の意味を知りたいと思ってその夜は眠ることは出来なく、ただ硝子戸から見える空が明るくなるのを待ち続けていた。


 このことがあった次の日からマスターはどこか少しだけよそよそしくなって。深く考えなければ分からないほどのことだったけれど、マスターは私に触れようとはしなくなった。冗談めいたじゃれ合いすらも。そんな毎日を何でもないように過ごしていたが、私はあの夜の行為の意味と唇が持ち続けた熱の意味、そしてマスターが私に触ろうとしない理由をずっと探していた。マスターがあの時呟いた「好き」には、どんな気持ちが入っていたんだろう──。
 マスターが仕事に出かけている間に、マスターの部屋に無造作に置かれていたノートパソコンを自分の部屋へと持ち出し、電源を入れるとヘッドセットからネットに繋ぐ為のジャックをするりと伸ばしてパソコンに差し込む。目をゆっくり閉じて深呼吸をして、自分の映し身だけをネットの電子信号の中へと流し始める。普通に人が使うようにインターネットに繋いでもいいのだが、この方が何か非常事態が起きない限りは痕跡が残らない。やがてがくぽの意識は、真っ暗な0と1の記号の渦に飲まれていった。
 ふわふわと宙に浮いて膨大な情報が流れる景色を私は見ていた。やがて、人型の何かが同じく宙に浮いているのを見つけて、それに近づいていく。それは近づいてくる私を見つけたらしく、話かけてきた。
──こんにちは、あなたは何?
──私、私はボーカロイド。貴方は何?
──私はセクサロイド。まあ、こんな形でボーカロイドに会うなんて初めてだわ。セクサロイド、この意味は知っている?
──言葉だけなら。私は探し物をしている、貴方なら知っているか?
 そしてがくぽはセクサロイド(女性タイプだったので彼女、と呼ぶ)に事の顛末を話す。そして探しているもののことも。
──あらあら、随分箱入りなのね。簡単にいえば、そのあなたの持ち主は貴方を性欲の対象として見ているということよ。
──性欲の対象?
──そうよ、例えば、こんなことを貴方にしたいということ。
 彼女の手が私の手に繋がれると、そこから情報が流れ込んでくる。きっと彼女が経験したもののひとつなのだろう、それは映像を伴って反映される。それは私にとってはかなりショッキングなものだった。
 彼女の手が離されると、私は力が抜けてぺたりとその場でしゃがみ込んでしまう。彼女はそんな私の様子を可笑しそうに笑いながら眺めている。ころころと鈴を転がしたような音のような彼女の笑い声は可愛らしい少女のようだった。
──貴方がどう思おうと、人間はこういう生き物なのよ。誰かを特別に好きだと思って、そうしたらその人が欲しくなる。そして思い合い互いに欲しいと思えば身体を重ねて、そうして繁殖するのよ
──しかし、私はボーカロイドだ。繁殖する機能だってついてはいない
──それくらいに貴方のことが特別なのよ、貴方の持ち主にとっては。でも、貴方はどうなのかしら?持ち主の事、どんな障害があろうとも好きでいられる?特別なただ一人の存在として意識出来る?その身体を重ねる事になってもいいと思えるほど大切かしら?貴方は、持ち主を欲しいと思う?自分だけのものにしたいと。そういう感情を人間は「愛」と呼んでいるのよ。
 そこまで一気に彼女に捲し立てられた後、ぐらりと2人がいた空間が歪む。どうやら、何かが干渉しているらしい。戻れない事態になる前に帰らねばと、私は彼女に礼を言ってから自分の身体へと意識を戻した。
 ぱちっと瞬きをすると、目に入ったのは硝子戸の向こうの景色だった。ああ、何事もなく帰って来れたと重たい息を吐く。これはため息なのか安堵の一息なのか分かりかねた。私はノートパソコンを使った事がマスターにバレないように同じ位置に置き、ふたたび自分の部屋へ戻ってきてベッドに身体を投げ出してうずくまった。考える事は当然マスターの事と自分の事。電子の海で出会った彼女が言っていた事を思い出し、ひとつひとつ思い出して自分の中で答えを探した。
 マスターの事は好きだ。これははっきりしている。マスターは私にとって大事な存在である事には違いない。問題はそこから先にある。私はふと、鏡台の上においてあった櫛を手にとった。その櫛を眺めながら、ならばこの櫛はどうだろうと考える。
 この櫛は好き。大事。理由は?
 …マスターが私にとわざわざ買ってくれたものだから。
 他の櫛でもいい?マスターが新しく買ってくれた物があったら別にそれでもいい?
 …ううん、それは少し違う。私は初めてマスターに買ってもらったこの櫛がいい。ずっと使ってきたこれが一番のお気に入りで、壊れてしまったら悲しいしもし壊れても捨てようとは思わない。
 ひとつのものを特別にと思い、失いたくない、他のものでは替えなどきかないという気持ちはこういう事だろうか。マスターはそんな思いで私に接してくれていたのだろうか。もし私が壊れたなら、マスターは私をどうするだろう。手続きを踏んで廃棄するだろうか、それともずっとそばに置いてくれるだろうか。
 私は、壊れてもマスターの近くに置いておいて欲しい。壊れたボーカロイドなど邪魔なだけだと思うが、私はここから、マスターから離れたくはない…。
 頭の中でキュルキュルと音が響く。ネットの中に忍び込んだ事と考え事で思考回路に随分負荷がかかってしまっているらしく、中枢システムの中の維持機能が動き出し私はそのまま重くなった瞼を閉じてスリープモードに入ってしまった。
「がくぽ?眠っているのか?」
 身体を揺さぶられている事に気がついて、スリープモードを解除する。すんなり解除が出来たという事は、負荷による疲れはもうすでに取れたという事だろう。目を開けると、心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいるマスターがいた。
「マスターお帰りなさい」
「お帰りじゃないよ、もう…スリープモードになってるとこっちがハラハラする」
 私の元気そうな顔を見てマスターは安心したらしく、私の肩に手を置いたままベッドの端に顔を埋めた。思えばこうして触れられたのは幾日ぶりだろう、唇が重なったときと同じように、マスターに触れられているところがじんわりと熱を持つ。それはただ人の体温が移っているだけではない、もっと違う熱さ。
「マスターが私に触れてくれたのは久し振りですね」
 くすりと笑うと、マスターは慌ててその手を私の肩から離したが、私が素早くそのマスターの手首を捕まえる。マスターは私のこの行為に驚いたらしく、ぽかんと口を開けて私の顔をじっと見つめる。ふふ、この間とはまるで逆の立場という事。
「が、がくぽ…」
「マスター言ってくれましたよね、あの夜。私の事を好きだと。私はあれからずっと考えていたんです」
「怒ってる…んだろう?突然あんな真似して。普通なら怒るよな」
 マスターの視線が床へと落ちてしまう。私の言葉も待たずに自己完結しないで欲しい。
「私はマスターが好きですし怒ってないです。誤解しないで下さい。ただ、知らなかった。マスターの言った好きの意味も、唇を重ねる行為の意味も、何も。私はずっとそれが知りたかった」
「…お前は知らなくていい、いいんだ」
 お前に嫌われるくらいならば、墓場まで持っていこうと思っていた恋しい気持ち。あの夜は何故かリミッターが外れて無理矢理キスをしてしまったけれど、もうこれ以上は何もしまいと誓ったのだから。俺はマスター、がくぽはボーカロイド。その関係以上のものを望んではならない。
「マスターは勝手ですね、もう私は巻き込まれてしまった。マスターが私を思ってくれる気持ち、私がマスターを思う気持ち、それは今はもう何も違わないものなのに」
 私はそっとマスターの手首に口付けをしてみせたらマスターの肌がびくりと跳ねたけれど気にしなかった。ただ、あの熱がマスターにも伝わればいい。
 そっとマスターの手首を開放すると、マスターはゆるゆると自分の身体に腕を引き戻していき私が口づけた箇所をぎゅっと反対側の手の平で握りしめてみせる。私はかたんとベッドから降りてマスターに向き合うように床の上に正座した。三つ指をついて丁寧に頭を下げて、そう、私がマスターに迎えられた初めてのときの様に。
「マスター、ひとつお願いがあります」
「……はい」
 私の真剣な様子に、マスターも緊張している。僅かにマスターの声が震えているのを聞き取れるのは、私がボーカロイドだからだろうか?
「もし私が動かなくなっても、マスターのお側に置いていただけませんか」
「がくぽ!」
 不吉なことを言うな、とマスターは私を叱咤した。機械の私の方が人間より長く動いていられるのかとかそんなことは知らないし分からない、マスターにも私にも神様でも。だから言えるうちに言っておかないといけないと思ったまで。
「お前は、俺が拒否出来ないと分かっててそういうことを言うんだな」
「別に拒否されても構いませんよ。マスターの思うようにして下されば。ただ私は私の願いを言っただけ」
 私はマスターのものですからと付け加えたら、マスターは顔を真っ赤にして私の身体をぎゅ、と抱きしめた。
 それが、私達の恋が始まった瞬間でもあった。


 それからは私達はマスターとボーカロイド、そして恋人同士としての蜜月を過ごした。夜は同じベッドに2人寄り添うように眠って、私が子守唄を歌ってみたりマスターは日本に伝わる怖い話や外国の物語などを語ってくれた。
 そんな甘い時間も期限付きだという事を知ったのは、桜の花の蕾が膨らんでそろそろ咲き始めるかという時期だった。
 マスターが出張で一週間ほど家を空けた。その間、私の頭の中はとても忙しくフル回転していた。マスターの身体はおかしくなっていないだろうか、事故などに巻き込まれていないだろうか。そして何より、一人きりで眠る事の寂しさが大きかった。本当に一人きりで誰も帰ってこない家にいると置いていかれてしまったのではないかなど私はとてもとても不安で悲しくて、その間は歌を歌う気にもなれなかった。
 そしてやっと帰宅するという日、私は今か今かと待ち焦がれて、玄関の上がり框のところでウロウロしていて。鍵がガチャガチャと開けられる音がしてドアが開き、小さな旅行用の鞄を下げたマスターに飛びついてお帰りなさいと言った直後だった。頭の奥でピーピーとサイレンのような音が響き始めた。うるさい、静まれと思ったがそれはだんだんと大きくなってやがてマスターにも聞こえるように外に漏れ出した。
「がくぽ!?」
 突然鳴り出した異音にマスターは腕の中の私を抱き上げてリビングの2人掛け用ソファに横たわらせると、急いでノートパソコンを自分の部屋から持ってきて私とパソコンを繋ぐ。どこに異常があるのかと調べる為に私の身体の中をボーカロイド専用のスキャンソフトが走り出すのが分かった。そうしてマスターがノートパソコンのモニタを睨みながらスキャンソフトが弾き出す答えを待っている間に、私の身体は徐々に自由が利かなくなって目も開けている事は出来なくなってしまった。

──深刻なエラー・中枢システムに破損箇所あり。

「中枢システム!?」
 マスターは声を荒げた。人間でいえば心臓であり脳でもある私の中枢システムは知らないうちに少しずつ破壊が進んでいたらしく、それまでは表に出てこなかったのにマスターが不在になるという不安に耐えられなかったことで負荷がそこに集中してしまい、遂に私の身体の機能を停止させてしまったということらしい。
 マスターは次の日に私をボーカロイドの工場に連れて行って直せないかどうかを修理担当の人に聞いたが、中枢システム自体は交換出来るが、日にちがかかるのと…最大の障害は、それまでのデータを一切失ってしまうという事だった。それまでのバックアップデータ自体が中枢システムに入っていて、新しいものにデータを移植するという事は出来ないのだということだった。人間に例えれば脳を丸ごと移植して生命維持は出来てもその人の記憶は移植する事は出来ないでしょう、それと同じ事だという。
 私の修理を行えば、私と同じ顔のまっさらな新品が来たのと同じ事。
 マスターはそこで思い出したのだ、私が昔言った「私が壊れても側に置いて欲しい」という願いを。
 マスターはそのまま工場から動く事の出来ない私を抱きかかえて家に持ち帰り、私の部屋のベッドに私の身体を寝かせる。
「お前はこれを望んだんだよな。叶えてやらなきゃな、俺はお前だけのマスターなんだから」
 開く事の出来ない私の瞼にマスターは口付けて、涙を一粒だけ私の頬へ落とした。



 それ以来、こうしてマスターは動かない私の世話を一日も欠かす事なくしてくれている。工場で精密検査をして判明した事なのだが、私の身体を動かす為のシステムは破壊してしまったが、思考回路や感覚分野のシステムは正常に動いていると。この症例は非常に珍しいですね、と技術者に言われたが、私が無意識に守ろうとした部分なのかもしれない。
 マスターを好きだと思う思考回路と、マスターに触れた時に熱を感じるところを。

 神様はほんの少しだけ、人間に恋をしてしまったボーカロイドに奇跡を与えてくれたのだ。



09/01/28


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