VOCALOID


I Pray For You





  いつもの基礎練習が終わって、がくぽはふぅとため息をついた。初めの頃の無調教丸出しの機械音な声とは違う、だいぶ人の歌い声に近い声が出せる様になっていた。マスターの指示も素晴らしくがくぽの才能を伸ばしていく。聞く人の内臓を震わすような低音域が特に美しいものだ。
「マスター、私はだいぶきちんと歌える様になったか?」
 シンセサイザーとにらめっこしていたマスターはにっこり笑って「上出来だ」とがくぽの額にキスをする。この行為にがくぽは特に反応しなくなった。少なくともこれは褒められている証拠であり、マスターのコミュニケーションの方法なのだと自分を納得させた。まあ、口唇にされたらまた騒ぐかもしれないけれど…。
「ほれ、がくぽ」
 マスターは譜面とMDをがくぽに渡す。譜面は基礎練習でも使っていたのでどういうものなのか分かっているが、小さなMDは何をする為のものなのか分からずに、天井の蛍光灯に透かしてみようとしたりしていた。
「それはMDって言って、専用の再生機にかけると音楽が聞こえるんだよ」
「え…むでぃー…えむでぃー」
「こうやってな、それをプレイヤーにセットしてヘッドフォン繋ぐと音が聞こえる」
 マスターはがくぽにプレイヤーの使い方を丁寧に教える。再生ボタンを押すと本当に曲が聴こえてきてがくぽはちょっとびっくりする。が、すぐに大人しくなった。曲に聴き入ってしまっていたのだ。

「その曲はお前が歌うんだ、がくぽ」

 マスターがそう告げると、がくぽは今までに見せたことのないほどの笑顔になった。

 やっとVOCALOIDとして初めの一歩に立てる。

 がくぽにはそれが何より嬉しくてたまらなかった。
「少しの間、譜面とMDの曲を合わせながら自分で歌ってみな。毎日の基礎練習でチェックするから」
 もう譜面から目を離そうとしないがくぽに向かってそう言って、マスターは夕食の準備の為に買い物へとスーパーに向かった。昨日まではがくぽもべったりくっついた生活をしていたけれど、課題曲を与えたことで自主練習のために、がくぽを1人にさせる必要がある。
「さーって、今日は何にするかな…正直茄子は食い飽きたんだよなぁ」
 好物ばかり与えても身体の栄養バランスに悪い…と思ったところでがくぽはVOCALOID、アンドロイドだ。栄養のために食べている訳ではなさそうなのだけれど、いくらマスターでもがくぽの身体の詳しい仕組みまでは知らない。
「でもまあ、茄子の漬け物くらいは常備してやるか。安いし。」
 マスターはくすりと笑うと、スーパーの自動ドアの奥へと入っていった。



 一方がくぽはというと、歌っている。あまり近所迷惑にならない様に声量は押さえ気味で、譜面を目で追い、MDから流れる伴奏と主旋律をじっくり聴いて自分の声を重ねる。
 やがてマスターが買い物袋を下げて帰宅した。玄関で靴を脱いでいる時に音楽室(歌を作るためのものがある部屋だからとマスターが名付けた)から早速がくぽの歌声が聴こえてきた。
(おっ、やってるやってる…)
 買い物袋を台所に運んで冷蔵庫に食品をしまっている時に聴こえたフレーズ。


「あいぷれいふぉぉぉゆぅぅ!」


 がくぽのあまりに棒読みな英語の発音と力み方にマスターはずっこけて冷蔵庫内の棚に額をごつん!と勢い良くぶつけてしまった。さすがに英語はがくぽにはまだ難しかろうと、譜面にはひらがなで歌詞を書いた。がくぽに渡した曲で英語部分はこのワンフレーズだけなのだ。しかし、そのまま読み上げられるとは思ってなかった。その上力んでしまっているせいか変なこぶしまでついてきた。マスターは冷蔵庫を閉めると、音楽室へ乗り込んで後ろからがくぽの譜面を取り上げた。
「マスター!何をするのだ!練習しておったのに」
 がくぽはプレイヤーの停止ボタンを押して立ち上がり、マスターが高く掲げる楽譜を返せ返せとばかりにぴょんぴょん飛び跳ねる。
「あー、ちょっとがくぽさん。そこで屈伸運動」
「マスターの言っている意味が分からぬぞ。私は楽譜を返して欲しいのだ」
「がくぽ力み過ぎ。なんでロックでこぶし回してんだよ」
「こぶし…?え、手首なぞ回してないぞ」
「お前、一通りの知識はあるって言ってたよな…」
 がくぽはマスターのその台詞にこくこくとうなづいた。がくぽの開発者がそういうプログラムを組んでくれたのは確かだが、日常生活に支障がないレベルの話で、音楽に関しては各々のマスターがそれぞれの個性で調教出来る様に一定以上のプログラムはされていない。
「こぶしは拳であろう?それ以外に何があるのだ」
 マスターの目の前に自分の右拳を突き出して指を開いたり閉じたりさせる。
「音楽用語だよ。音楽のジャンルで言うと演歌を歌う人が、力を入れて単語を伸ばしたりする感じで。さっきのがくぽみたいな『ゆぅぅ!』っていう歌い方がそうなの」
 普段あまり怒らないで、褒めて伸ばすタイプのマスターが目を吊り上げて怒っていることにがくぽは結構なショックを受けたらしく言い返す元気もないようだ。
「……すまぬ、マスター。期待を裏切ってしまって」
 どう見てもしょぼんとしぼんでいるがくぽに怒っていたマスターははっと我に返る。
「えっ?あ、いや…ちょっと言い過ぎた。ま、まあそこは練習の時にちゃんと教えてやるから」
 あたふたとがくぽのフォローに回ったマスターだったが、どうやら遅かったらしい。がくぽはふらっと音楽室を出ていき、そのまま自分の寝室へと向かっていってしまった。
「がくぽ!夕飯は!?茄子の漬け物あるぞ」
 まるで拗ねた子どもの機嫌取りのようなマスターの言葉に、がくぽはくるりと身体を翻すとマスターにぴしゃりと返した。
「今日はもう休みたいのだ。夕食はマスター1人で食べて欲しい」
「がくぽ……」
「おやすみなさい、マスター」
 扉の向こうの足音が遠くなっていって、布ずれの音がした。がくぽは完全に布団へと潜り込んでしまったようである。


 ああ、コミュニケーションとはなんと繊細な作業なのか。マスターは茄子の漬け物をぼりぼりと咀嚼しながらがくぽのいる寝室へ目を向けていた。


 がくぽに部屋から出てきて欲しい。そればかりを考えながら。





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