VOCALOID


a knot





 散歩コースである河原の土手で一人、がくぽが河の流れをじっと眺めていた。


 昨日は渡されていた歌をきちんと最後まで入れ終えて、マスターが最終調整して見事な曲が完成した。マスターとがくぽは喜びを分かち合い、そのまま眠りに入ってしまった。目が覚めたらもう夕方だったのだが、疲れているマスターを起こすことを今日だけはやめて、一人で家を出てきてしまった。
「良い歌であったな…」
 本当に自分が歌ったものなのかと思う位に、それががくぽに与えた充実感はすごいものだった。マスターと喧嘩をしたり思う様に歌えない自分に苛ついたり、色々あったからきっとこんなにも嬉しいのだろう。


 土手で遊んでいた子どもたちの声が気がつくと無くなっていた。がくぽが空を見上げればもう日は沈もうとしていた。ぼんやりしすぎて暗くなってきていたことに気付けなかったのだ。
「いかん、家へ戻らねばマスターが心配する…」
 一応"散歩に行ってきます"という書き置きは残してきたのだけれど、いつもいつも自分を一人で外出させないマスターのこと、時間が遅くなればみっともないほどに心配するに決まっている。

 しゃがみ込んでいた体勢からすっと立とうとした瞬間、何かにポニーテールをぐいと下に引っ張られてその勢いのままがくぽは土手にごろんと倒れ込んでしまった。

「無礼な、誰じゃ!」
 そう叫ぶがくぽを覗き込む影が2つ。逆光なので表情は分からない。けれど、体格からしてこの2人は男性であることは分かった。
「ぷっ!何こいつ、時代劇の見過ぎ?」
 影の一人が嘲笑う。かなりがっちりした体格なのが影の大きさから分かる。
「近くで見るとすっげぇ美人だな。男か?女?」
 もうひとつの影が話しかける。ちなみにポニーテールの先を握っているのがこの青年であるようだ。
「…私は男じゃ!おなごに用があるのならば他を当たるがよい。私の髪の毛を離せ、マスターの元へ帰らねばならぬ」
「ますたー?マスターって、あんたどこかの店で働いてんの?いくらもらってんの」
 ずーっと給料のいい仕事紹介してやるよ、と青年はがくぽにそう持ちかけるが、がくぽが正しくそれを理解するはずもない。
「マスターは私の所有者だ。貴様らの話はさっぱり理解出来ぬ。離せと言っているのが分からぬのか、このうつけが」
 強気な態度で2人に接するがくぽに苛立ったのか、もう一人の青年ががくぽの鳩尾に拳を叩きつける。強烈な痛みにがくぽは苦悶の表情を浮かべた。額から冷や汗がつぅっと垂れる。


「お前、売りもんに傷つけんなよ。値が下がる」
「だーって、こいつうるせえし生意気なんだもんよ。ちったあこの状況考えろっつの」
 苦しみ悶えるがくぽの上で2人は言い合いを始める。この2人は何を言っているのだろう。売り物とは自分のことなのか…?自分にはマスターがいるのに、他の誰のものにはなれないというのに。
「まぁ、こんだけのレベルのものはそうないからな、変態オヤジ達は喜んで大枚出してくれるぜ」
「今日日男の方が良く売れるしなぁ」
 そう言うと体格のよい青年がひょいとがくぽを肩に担ぐ。多分近くに車を止めてあるのだろう。がくぽは驚いて必死に肩の上で暴れてみるも、反撃は青年にはあまり効果がないようだった。


 これはもう、叫ぶしかない。幸い口を封じられてはいない。
 がくぽは力の限り叫んだ。

「マスター!!!マスターっ、マスターぁっ!!!」


 喉を痛めてもう歌が歌えなくなるかもしれない、でもここで叫ばなければこのまま男達に連れられて自分はどこぞの遊郭のようなところに売られてしまうのかもしれない。
(歌が歌えなくなっても、マスターと離れたくない…!)
 がくぽの瞳からは涙がぽろぽろ零れてきて、青年らはがくぽの口を塞ごうとしたけれど必死に抗い、ただただマスターを呼び続けた。


 すると、一番近い曲がり角からすばやく影が近づいてきて、がくぽを担いでいる青年に後ろからタックルをかけた。
「うおっ!?」
 ふいの衝撃に耐えられなかった青年はそのままバランスを崩してがくぽを放り出してアスファルトに倒れ込んだ。
「なんだてめぇ!」
「がくぽのマスターだ!」
 放り出されたがくぽを素早く自分の懐に回収したマスターは、金属バットを片手に青年2人に立ち向かう。
「人のもんに手を出すな!今なら警察呼ばないでやる、どっかいけ!」
 青年達はマスターの鬼のような気迫に押され、そのままバタバタとどこかへ去って行った。




 家に帰ると、マスターは懐に抱えたままのがくぽを自分の部屋のベッドにぽいと放り投げて、そのままがくぽの上に自分ものしかかる。
「ま、マスターっ…」
 わたわたとマスターの下で暴れるがくぽを乱暴に押さえ込むマスター。
「マスターの言うことが聞けない悪いVOCALOIDにはお仕置きだ」
「先程のことは私が悪かった、謝るからっ…」
 マスターは「許さない」と冷たく呟いて、強引にがくぽの口唇を荒々しく塞ぐ。本来なら愛し合うための行為がこんなにも悲しくも感じられることがあるということを初めて知った。


「マスターっ…ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 涙が溢れて止まらなくて、ひたすら謝罪の言葉を繰り返すがくぽを掻き抱くマスターの動きが一瞬止まって、そしてそれまでの乱暴さが嘘の様に優しくがくぽの身体を抱きしめた。
「もういい…怖い思いさせて悪かった」
 ぎこちない笑みを浮かべたマスターの手の平は涙で濡れたがくぽの頬を包み込む。
「マスターは悪くない。私を助けてくれたではないか…」
「お前が俺を呼んでくれなかったら、助けてやれなかったと思うよ」
 間に合わなかったらどうなっていたことか。考えただけでぞっとする。最悪の事態を思い浮かべながら金属バット片手にがくぽを探していた時、ずっと手が震えていた。

「のうマスター、マスターは私が歌えなくなったらやはり私を捨ててしまうか?」
「…バーカ。がくぽはほんとに馬鹿だな」
「叫んでいた時思ったのだ…もし歌えなくなっても、私はマスターと離れたくないと。でも、マスターは私がVOCALOIDだから必要なのであって、歌えない機械に用はないかもしれないと」
 ぎゅ、とがくぽが甘える様にマスターの胸にすがりつく。マスターはがくぽの不安を吹き飛ばしてやる様にけらけらと笑って
「歌えなくなったら俺専用のセクサロイドでイイじゃん」
 と軽口を叩いた。


「マスター…"せくさろいど"とは何じゃ?VOCALOIDみたいなものか?」
 言葉の意味が分からなかったがくぽは「はて?」と首を傾げる。
 墓穴を掘ってしまったマスターはそれから少しの間、がくぽに口をきいてもらえなかった。





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