私・神威がくぽのマスターは謎に満ちている。 多少の変人だが悪い人ではないし、私も特にマスターが言ってこない限りは聞くつもりもない。人には言いたくない秘め事というものがあるものだから。 「…ん?なんだがくぽ。夕食の献立に文句があるならもっと早くに言え」 私とマスターは小さな座卓に向かい合う様に座っている。そういえばマスターは食事時にテレビをつけない。私もこのテレビと言う箱を初めて見た時は驚いたが、次々に変わる画面が珍しくて愉快で釘付けになってしまい、今でもマスターにテレビ視聴時間の規制をかけられている。 「私はマスターの名も知らぬのだな、と思って」 私がかたんと箸を座卓に置くと、マスターは茄子の漬け物をぼりぼりとかじりながらきょとんとした目で私を見た。今まで何も言わなかった私がこんな話を持ちかけたことに驚いたのであろう。 「うーん、それねぇ。がくぽに名前で呼ばれたくないんだよなぁ」 「マスターは自分の名が嫌いなのか?」 「え、いや、別に?」 マスターはそう言って茄子の漬け物をごくりと飲み込んであっけらかんと答えた。 「俺はね、がくぽとはそういうものがなくても成り立つ関係でありたいんだ。地位とか名声とか家名とかさ、下らない」 地位、名声、家名。 私には分からないけれど、マスターには何か背負っているものがあるに違いない。けれど、私とはそれらを全て取り払った一個の個体同士で私と付き合いたいと、そういうことなのであろう。 「つまらぬことを言った、すまないマスター」 私がマスターに向かって謝罪のお辞儀をしようと身をかがめたら、マスターがすかさず私の額に接吻してきた。 マスターははっはと笑いながら座卓の上の食器を片付けていく。私はしてやられた、とむむぅと頬を膨らましてそんなマスターの後ろ姿を睨む。しかし、マスターがこれをしてきたということは私のつまらぬ詮索を「気にしてないよ」と言ってくれていることだ。 いつもこうしてマスターは私に許しの証を与えてくれる。 それは私にとってとても嬉しいこと。 …まあ、それ以上のスキンシップはもっと慎んでもらいたいところなのだが。 なんてことを考えていたら、洗い物が済んだらしいマスターが台所から私めがけて蛙の様に飛びついてきた。 「マスター!重いというか…とても痛いのだがっ…」 いきなり床に押し倒された訳で、思いっきり肘や腰や背中をぶつけてしまった。いつもなら庇える後頭部も突然のことで、それはそれは鈍い音を立てた。 「よく考えたら喜ばしいことだよなぁ。だってがくぽが俺のこと知りたいって思ってくれたわけじゃん?」 私の上で満面の笑みを浮かべているマスターはそう言いながら私の頬に自分の頬をすりすりと擦り付けている。マスターのスキンシップは子どもっぽいというか動物的というか、そんな感じである。いや、人としては直情的なのか。 「え…まあ…そういうことになるのであろうか…?」 「いい傾向だ、うん」 そう言ったマスターは私の服を脱がそうと動き始めた。こんな場所で夜伽に及ぶなど冗談ではないと私はなんとかマスターを自分の身体から引きはがして、ぽいっと放り投げる。 「マスターは節度というものを知らぬのか!まったく、このような場所ではしたない」 私が叱りつけるとマスターは残念そうな顔をしながらも渋々私から手を引いた。寝室ならば私がそれほどは拒まないことをちゃんと分かっているのだ。 「名前ってのは、確かに個体の識別には必要なものなんだけどさ」 終わらせたと思っていた話題をマスターは話し始める。聞いて欲しいのだろうと思って私はマスターの隣に正座すると、マスターは私の膝を枕代わりにしてごろりと横たわった。 「色んな人が俺を名前で呼ぶ。でも、俺をマスターって呼ぶのはがくぽだけだろ?それがすげー気持ちいいんだ。がくぽにとって俺は唯一無二の存在だってことが実感出来てさ」 「…マスターは以外に繊細なのだな」 「そうだよ。だからもっと俺に優しくして」 「それとこれとは別問題」 私はマスターの頭を優しく撫でてやった。いつもは逆の立場なのに不思議なものだ。私がマスターに頭を撫でられて心地よい安心感を感じる様に、マスターは今同じ安心感を感じてくれているだろうか。 穏やかで優しい時間だけがふわりと2人を包んでいる。 たまにはこんなことも悪くはないだろう。 |