「……、………ぽ」 私の名を呼ぶ声がする。うっすらと瞳をあけると、ここは薄暗い。 「私の名を呼ぶのは、誰じゃ…」 呼ぶ声に返事をしてみると、暗かったこの辺り一面が膨大な光の渦に飲み込まれていく。抗うことも出来ぬまま、光の渦に身をまかせていると、何かに吐き出されたような感覚がして、それから閉じていた瞳を開けるとそこは誰かの部屋のようで、がくぽの身体はふわふわと宙に浮いていた。 「おお、やはり生で現物を見ると迫力があるなー」 ぱちぱちを手を打ち鳴らしながら私を眺めている人間がひとり、部屋の片隅に立っていた。 この人間は「男」だ。頭の中にインプットされている膨大な情報の中からその答えを導き出す。 がくぽは武士を模して作られた「VOCALOID」ではあるが、一応彼が作られた現代のことも基本的なことは彼を作った人間がデータをきちんと入れてくれている。故に、車を見ても「鉄の猪」などという反応はしない。……まだ見たことがないので、そこは何とも分からないが。 「私の名を呼んでいたのはそなたか?」 がくぽはさっと手にした扇を広げて男を差す。そんな一挙一動に「おおっ」とか「すげぇ」なとどいった謎の言葉を男は発していた。 「そうです。俺が君を呼びました、神威がくぽくん」 男はニコニコと笑いながらがくぽに近寄ってきた。そしておもむろにがくぽの手をとると、手の甲にそっと口づける。 「今日から俺が君のマスターだ。よろしく」 「……マスター」 その言葉が鼓膜から奥に響き、キュンを音をたてて身体の中の回路を走る。セキュリティシステムが男を「マスター」と承認し、ロックがかけられる。その一連の作業が終わると、浮いていたがくぽの身体は静かに床へと降りていった。マスターが「とりあえずお茶でも」と言って居間にがくぽを案内した。そこには知識だけあっても初めて見るものが多いため、がくぽはあちこちおかまいなく触れてたり動かしてみたりして落ち着かなかった。 「お茶、飲めるよね?」 「食べたり飲んだりというのは人間と変わらぬ。もちろん好き嫌いもある」 マスターが置いてくれた湯呑みに口をつけて音をたてない様にお茶をすするがくぽ。こういうところは武士の礼儀作法なのだろう。 「へぇ、がくぽは何が好きで何が嫌い?」 「好きなものは茄子。嫌いなものは特にない」 マスターがその言葉にぷっと吹き出す。可笑しそうに笑っているのでがくぽはその様子が気に入らない。湯呑みをちゃぶ台に置いてマスターに喰ってかかった。 「私が茄子を好きで何が悪い!」 「いや、ごめんごめん。悪くないんだけど、なんからしくってさ」 ひーひーと腹をよじらせて笑うマスターはがくぽの肩をぽんぽんと叩いた。 「何て言うのかな、がくぽって色が茄子…」 「そのようなことは知らぬ!私を作った人間に文句を言え」 完全にへそを曲げてしまったがくぽだったが、茄子色とまでは言わなくても彼のカラーリングは紫が基調になっている。優雅に揺れる長い髪の毛、瞳の色、着物の裾。ボディ部分は上手く言えないが、青色の甲冑のようなものをつけている。そんな寒色カラーの中で目を引くのは、艶かしく光る口紅。 「がくぽは美人だ」 がくぽの顔をじっと眺めていたマスターはぽつりと呟いた。着るものを変えて髪も上手くアレンジしたら、女性と言っても誰も気付かないかもしれない。 「マスターは先程から失礼なとこばかり言う。美人とは、女性に対する褒め言葉であろう」 「美しい人はみんな美人だ。男も女も関係ないさ。ま、もっとも俺がそう思っているだけだから」 マスターは自分とがくぽの湯呑みを台所のシンクに置くと、部屋を移り自分のクローゼットの中を探る。 がくぽに合う服はないかと探しているのだ。デフォルトの格好はとても良く似合っているけれど、やはり現代で生活するには色々と不都合が生じる。不審人物として警察に捕まってしまったものなら大変だ。 数十分後、マスターはがくぽにやっと見つけ出した洋服を手渡した。白と紫のボーダー柄のTシャツと、まだそんなに履いていないジーンズ。丈が合うかが心配だったが、履いてみせたらジャストサイズだった。しかし、これを着てもらうまでには大変な苦労があったのだ。 がくぽは「私は武士だ!このようなけったいな服など着たくもない!」と駄々をこねたが、ここで生活していくにはその服はあまりにも不便で目立ってしまうことなどをこんこんとマスターが諭してようやく着てもらえたのである。 「がくぽ、買い物に行くぞー」 マスターはそう言うとがくぽの手を引っ張って家の外へと出た。ここはマンションの一室で、だいぶ高い階であるらしく、見晴らしがとても良かった。 もちろん下に降りるのはエレベーターで。幸いがくぽとマスターの2人しか乗っていなかったので良かったが、ウイィィン…と音をたてて下の階へと向かうエレベーターの中ではがくぽが「箱が、床がひとりでに動いておるー!」とパニック気味になり、出かける前から大変だった。 「マスター、あれは何じゃ?」 「あーあれは…」 先程からこの会話の繰り返し。がくぽは見た目は大人で知識はあるのだが、実物と知識が一致していないと見える。こんなに大の男がはしゃぎながら「あれは?」を繰り返しているので、まるで幼児を連れて歩いているような気持ちにさせられたマスター。 やっとスーパーに辿り着くと、これもやらせておこうと、マスターは買い物用のカートをがくぽに持たせた。 「これは何なのじゃ?」 「ここに買い物かごを乗せてガラガラ押していくんだよ。俺は買うものをカゴに入れていって、最後にレジで精算」 「ほう、赤ん坊の乳母車みたいじゃ」 がくぽはカートをガラガラと押したり引いたりして少し動かしてみて気に入ったのか、マスターの後についてカートを押して店内を歩き始めた。しばらくは順調に買い物は進んでいったのだが、がくぽがマスターの服の袖をつんつんと引っ張った。 「なんだがくぽ、トイレか?」 ふるふるとがくぽは頭を横に振る。 「じゃあどうした」 がくぽはそっと消え入りそうな声でマスターに耳打ちをした。 「皆が私を見ている」 「あ、あー…」 食材しか見ていなかったマスターは気付かなかった。スーパーの客や店員は物珍しそうにがくぽをみていることを。 薄紫の髪、雅やかに結われた髪型、そして紅をさした口唇。首から上だけでも普通の一般人とは全く違うがくぽ。そして顔だけ見て女かと思えば首から下は完全な男性。そして買い物カートを引いている。 この庶民的な場に、がくぽの容貌は浮いてしまっていた。 「おーおー美人は注目されるなぁ」 「マスター」 「別に笑われてる訳じゃないんだから、見せつけてやればいいさ」 はははっと豪快に笑ってマスターはまた買い物の続きを始めた。慌ててがくぽもカートをガラガラと押して後を追う。 マスターの言う通りで良いのかもしれない。がくぽは少しだけ嬉しくなった。 買い物袋を2人で分けてぶら下げてマンションへと戻る道すがら、一台のスポーツカーが2人の横を走り抜けていった。 「マスター、今のが車と言うものか?」 「色んな形や大きさのものがあるけど、そうだな、車だ。お前知ってるのか」 「知識はデータに入っている。現代でも普通に対応出来る様に。しかし、知識だけで形そのもののデータまでは入らなかったようだ」 「ふーん、なにげにすげーなお前」 …その感嘆の言葉の意味まではがくぽのデータには入っていない。けれど、褒められているということはきちんとマスターの声色から伝わってくるので、あえて深くは聞かないことにした。 家に帰ってからマスターの作った料理を2人で食べ(茄子の漬け物も用意されていた)、がくぽは現代の風呂の狭さに文句を言い、シャワーなどの使い方をマスターに教わる。ようやくあがって来たと思えばその長い髪の毛がまだびしょびしょで、マスターが一生懸命バスタオルで水気をとった。顔を向かい合わせて頭の上の方や前髪を拭いてやっている時に、マスターははたと気がついた。 「がくぽ、お前顔を洗った?」 「石鹸できちんと洗ったが、何かおかしいか?」 マスターは右手の人差し指でつっとがくぽの唇に触れた。 「口紅が落ちてない」 「ああ…たぶんこれは落ちぬと思うぞ」 こういう設計で作られたからの、とがくぽが説明すると、マスターはちょっと驚いた顔をがくぽに見せた。そしてしげしげとマスターはがくぽの顔を眺めていたが、突然がくぽの唇に自分の唇を重ねた。驚いたがくぽはマスターの身体を突き飛ばして自分の身体を守る様に抱きしめた。 「いきなり接吻など、何を考えておる!もしや、マスターは男色家なのか…!?」 ならばとんでもないところへ来たものだ。しかし、もうマスターは変えられない。このマスターが解除をしなければ…。 一方、がくぽに力一杯突き飛ばされて部屋の壁に身体を強く打ち付けたマスターは、よいこらしょと起き上がった。 「ごめんごめん。がくぽが風呂上がりで色っぽかったからさ、ちょっと、つい」 そう言ってマスターはがくぽの頭に乗ってるバスタオルをひょいと取り上げるとがくぽのおでこに軽くキスを落として「おやすみ」と言って部屋を出た。 がくぽは、敷かれた布団の上に寝っ転がって、枕をぎゅっと抱きしめる。 知りたい、マスターのことを、もっと。いや、知らなければいつか自分の身に危険が降り掛かってくるかもしれない…。 そんなことをグルグル考えているうちに、眠気が襲ってきてがくぽは夢の中へ足を突っ込んだ。 |