VOCALOID


楽園





 がくぽがマスターの行動を若干警戒しつつ幾日かを無事に過ごした。その間は特に過剰なスキンシップはなかった。きっとマスターも反省しているのだろうと思う。


 そしてある日、初めにがくぽが現れた部屋へと行く様にマスターに告げられる。そういえばこの部屋にはあれ以来出入りしたことがない。ドアのノブを回してがちゃりとドアを開けてその部屋に入って改めて様子を見る。ここにはパソコンが数台と電子キーボードや何か色々な機械が所狭しと並べられていた。ふと、がくぽはパソコンのモニタに触れる。
「私はここから出てきたのか…」
 きっとこの中に戻る方法もあるのだろう。しかしがくぽはそれを知らない。マスターが知っているかもしれない。けれどマスターはがくぽをパソコンの中へ戻そうとはしない。そこに何か理由があるのかは、マスターに聞いたことがなかった。今度聞いてみることに決めた。


 ややあって、マスターがスポーツ飲料のペットボトルを2本抱えて部屋の中へ入ってきた。
「それじゃあ、始めようか」
 マスターはパソコンを起動させて、キーボードの鍵盤に指を軽く滑らせた。電子音独特の歪みが入った音が小型のスピーカーからがくぽに取り付けられたヘッドフォンを通して鼓膜へ届く。
「とりあえず、キーボードの音に合わせて発声してみて」
「うむ。私は美声だぞ、マスター」
 そしてマスターがドレミファ〜と音階を上げていく。それに合わせてがくぽも腹に力を入れてあーあーあーと声を出した。1オクターブ分をやり終えると、マスターはキーボードから指を離した。
「……うーん……」
 がくぽは声を出して自信満々にふんぞり返っているが、マスターの表情は硬かった。
「どうしたのだマスター?私の声は美しかろう?」
「あー、美しいとかは置いておいて…やっぱり、無調教なだけあるな…」
 がりがりとマスターは頭を掻いた。がくぽは確かにベースになっている声はいいのだが、機械なだけあってノイズが混じる。レガードがなってないのだ。普通に喋っていたので歌も普通に滑らかに声を出してくれると思っていたマスターは腕を組んで悩む。
「まあ、それはこちらでもある程度調整出来るけど、やっぱりがくぽがちゃんと歌ってくれることに越したことはないし」
 ぶつぶつとパソコンのモニタを睨みながらあれこれ言っているマスターの姿に、がくぽはちょっと不安になる。
「…マスター、私の歌は上手くはないのか…?」
 しょんぼりした声でマスターに問いかけるがくぽ。いつもピンと立っているアホ毛もしょんぼりと下を向いている。
「はっきり言おうがくぽ。今の状態では曲をあげられない」
「なんと!」
 がくぽの手はわなわなと震えて、持っていた扇をぽとりと床に落とした。よほどショックが大きかったのだろう(というか、どうしてそんなに自信満々だったのかが分からない)。
「だから、しばらくは基礎練習しよう」
 マスターは優しく笑ってがくぽのがっくりと項垂れた頭をポンポンと叩いた。床に落ちた扇を拾ってやってがくぽの手に握らせてやる。
「大丈夫、すぐに歌える様になるさ。しゃべるように」
「うむ…頑張るでござる。私はVOCALOIDなのだから…歌えぬVOCALOIDなぞ必要ないのだ」
 最後のがくぽの言葉が切な過ぎて、そんなことはないと伝える為にマスターはそっとがくぽを抱きしめた。

 初めてきた日の時とは違って、がくぽもマスターを突き飛ばしたりする元気が今はないため、そのままマスターの肩に額を寄せた。
(マスター…あたたかい…)
 そのままマスターが頭を撫でてよしよしと子どもをあやす様にしてくれるので、がくぽも遠慮なく甘えた。マスターのその行為を嫌だとは思わなかった。
 その後2人はまた何度か発声練習をして、どこが悪いのか、どうすればいいのかを考えてまた発声練習に戻る。

 最初よりは、少しだけ上手く歌えたような気がした。



「この辺で終わりにしよう、もう夕飯の時間だ」
 そう言われて部屋の壁にかかった時計を見てみたら、確かに午後の8時近くなっていた。
「本当じゃ。没頭していて気がつかなんだ」
「それくらい真面目にやってたってコトさ。さあがくぽ、今日の献立は麻婆茄子だぞ」
 ぷつんぷつんと機械類の電源を切って、いそいそと部屋を出ていくマスターの後をがくぽは追う。
「まーぼーなすとはどういった食べ物じゃ?」
「中華料理で茄子を辛めのタレで炒めたものだよ」
 マスターは台所で中華鍋や食材の準備をしながらがくぽからの質問に答えている。そこへとてとてとやってきたがくぽはマスターの後ろからその様子を覗き込む様に見ている。麻婆茄子といってももちろん出来合いのタレを使う簡単な料理で、そのタレは箱の中に入っている。その箱をがくぽは手にとってまじまじとパッケージの写真を見つめていた。
「何やら赤いのう。これがタレとやらなのか」
 マスターは中華鍋に油を注いで、切った茄子をそこに入れてささっと炒める。早くタレと絡めないとせっかくの茄子の食感が失われてしまう。がくぽからひょいとタレの入っている箱を取り上げて、袋をひとつ開け中華鍋にタレを注ぎ込む。辛み特有の煙が上がって、吸い込んだがくぽは思わずむせてしまった。
「なにしてんだお前は」
 男の人だけあって重たい中華鍋をひょいひょいっと扱っている。マスターは結構料理好きらしい。がくぽはむせたせいで涙を流しながらまたマスターの後ろに戻る。
「空気が辛かった!食べたことがない辛さじゃ」
「まあ、そうかもね。ほらほら、出来た。持っていくからちゃぶ台で待ってな」
 マスターが台所からがくぽをぺっと追い出す。仕方がないのでがくぽはちゃぶ台のいつもの位置に座って、マスターが料理を持ってくるのを大人しく待った。マスターはまず麻婆茄子と箸を持ってきてちゃぶ台の上に置いた。そしてご飯をよそう為にもう一度台所に戻っていった。がくぽは、盛りつけられた麻婆茄子をじーっと見つめ、そしてくんくんと犬の様ににおいを嗅ぐ。先程吸い込んだ空気のような辛さは匂いからは感じられなかった。

 行儀が悪いとは思ったが、箸はあるのだから食べることは出来る。マスターがご飯を持ってくるまでに、がくぽは麻婆茄子を一個箸で摘んで、そっと口に入れた。確かに口に入れた瞬間はびりっとした中華の辛さがあったが、茄子を咀嚼していくうちに甘みも感じられた。タレに入っていた豚のひき肉も良い感じに辛さを中和している。
「ふむ、うまひのう」
 がくぽがもぐもぐと初中華料理に舌鼓を打っていると、ゴン!と後頭部を殴られた。振り向くと、マスターが両手にご飯と取り皿を持っていた。
「つまみ食いなんて武士のくせにみっともないぞー」
 目の前に麻婆茄子用の取り皿とご飯を置かれ、がくぽはもぐもぐと口の中にものを入れたまましゃべろうとしたので、マスターは慌ててがくぽの口を塞いだ。やがてごっくんとがくぽがつまみ食いの麻婆茄子を飲み込むと、マスターはやっとがくぽから手を離した。

「麻婆茄子は美味いのう。あまり辛くなかったぞ」
「辛い方が良いなら香辛料買うけど」
 にやりとマスターの口元が歪む。分かってて言っているのだマスターは。
「い、いや!これくらいが一番良いと思うぞ?」
 実は結構辛いものが苦手ながくぽ。これ以上辛くされたら口に入れることが出来なくなってしまう。それは勘弁願いたい。場を誤摩化す様に麻婆茄子を頬張って必死にもぐもぐ食べ始めた。

(ぷっ、リスみてぇ。可愛いなぁがくぽ)

「落ち着けよ、誰も取らねえから」
「んぐ、んぐぐー!」
 終いにはがくぽは喉を詰まらせて、ものすごい勢いでお茶を飲み干した。
「はぁっ、はぁっ。ふ、風呂に早く入らねばなるまい?」
「あ、そうだな。じゃあ風呂のお湯入れてくるわ」
 マスターはきちんと食事を終えてお茶で一服してから、立ち上がって風呂場に行き浴槽にお湯を溜め始めた。ドドドドドという音が風呂場から居間にいるがくぽに聞こえてきた。
 ここ数日でだいぶ上手に風呂に入れる様になった。髪の毛を拭くのはその長さゆえ大変な労力だが、要領も得てきてそんなに時間がかからなくなった。
(風呂に入って後は寝るだけ、か…)
 そういえば、ふと思い出した。マスターが何故自分をパソコンの中に戻さないのかということを。この部屋は大の男2人でも特に狭さを感じさせない。けれど、寝るときだけでも自分がパソコンの中に戻ればその分広くなるのだ。
「おーい、がくぽー?お湯入ったぞー」
 浴室から居間に戻ってきたマスターの腕をがくぽはがっしりと捕まえて、目線を合わせて真剣に問うた。
「マスター、なにゆえ私を実態化したまま置いておくのだ?私はパソコンの中から出てきたのだろう。ならば、中に戻ることも可能なはず」
 マスターはぱちくりと目を瞬かせて、がくぽの質問に驚いていた。彼がそのことに気付くとはマスターは思っていなかったのである。マスターはちょっと照れた顔をして、がくぽの頭に手を乗せた。がくぽは警戒したのか少しだけ身体をマスターから離す。
「だって、1人より2人が楽しいじゃん?」
 マスターはわしわしっとがくぽの髪の毛をぐしゃぐしゃにして、浴室に押し込んだ。やがてシャワー音が聞こえてきた。その音にかき消される様に、マスターは本音を呟いた。

「だって、ジャケットのがくぽに一目惚れして買ったなんて言える訳ないじゃん…」

 それまで発売されたVOCALOIDはたくさんいる。けれどそんなに食指が動かなかった。しかし、行きつけの店でがくぽのパッケージを見た途端、頭の中に衝撃が走って、勢いそのままがくぽのソフトをお買い上げしたのだ。


 せっかくの2人だけの時間が手に入ったのだ。手放そうなどと思わない。





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