そろそろ夕食の準備でもするかとマスターはぱかっと冷蔵庫を開けたが、そこには何も入っていなかった。あれだけ切らすまいとしていた茄子の漬け物さえも。がくぽにもそろそろ一人で外出するトラウマを克服して欲しいなと思っていたところなので、ここはひとつがくぽにスーパーまで行ってきてもらおうとがくぽにかくかくしかじかと話してみる。がくぽはものすごく苦虫を噛み潰したような顔をして嫌だということを表情でマスターに伝えていた。 「がくぽ、お前この間テレビでやってた"はじめてのお使い"見て泣いていたじゃないか」 「あれは幼な子が懸命にやるから感動するのじゃ。私が同じ行動をしたところでマスターは泣いて喜ぶのか?」 そこでマスターは拳を握りしめてがくぽに詰め寄ると、力一杯頭を縦に振った。 「おうよ!玄関で泣いて迎えてやるぞ」 …マスターにここまで言われてしまったら従うしかない。基本的にアンドロイド全般はマスターの命令には逆らえない様に出来ている。それに確かに誘拐未遂のショックも薄れてきているので、がくぽも今回の話に乗ることした。一人で外出出来ないのは正直ちょっと辛かったのだ。 「承知した。で、何を買ってくればよいのじゃ?」 マスターはにっこり笑ってがくぽに買い物リストのメモを渡した。ふんふん…とがくぽが目を通していると、リストから察するにメニューはカレーのようだ。カレーを初めて食べたのは、マスターの味覚に合わせた辛さで調理されたカレーを出されて、そのあまりの辛さにしばらく咳き込んで咽せて、水を大量に飲んだ為にお腹が膨れてしまいあまり量を食べられなかった。そういえば、それからカレーを食べていないような気がする。 「マスター、私は辛いものは食べられないぞ」 「知ってるから。ルーは甘めの中辛のものを選んだから、がくぽにも食べられると思うぞ」 もしメモに書いてあるものがなかったら甘口のものを買ってこいと言われ、お財布とメモを持っていざスーパーへと出発したがくぽ。エレベーターが来るのを待っている時にちらりと横を見たら、まさにはじめてのお使いよろしくマスターがドアを少し開けて、がくぽのことを見送っていた。 いつもはマスターと話しながら歩く道のりをがくぽは一人でぽてぽてと歩く。心なしか歩みが早いのはやはり恐怖心が残っているからなのだろうか。今日はそれほど目立たないはず。いつもマスターが着ているようなTシャツとジーンズ、長い薄紫の髪の毛は下ろして項のところでゴムでひとつにまとめただけの簡素な姿だ。 スーパーの灯が見えたところでようやくがくぽは緊張を解いた。ここまで来れば人もたくさんいるし、賑やかな音もたくさん流れている。ほっとしてスーパーの中へ入ると、キャベツの品出しをしていたおばさんに声をかけられた。 「あらまぁムラサキくん。今日は一人なの?珍しいこと」 「ええ、マスターに言いつけられまして」 「今日はお肉が安いわよ、お使い頑張ってね」 ムラサキくんとは、このスーパーのパートさんの間でのがくぽの愛称で、買い物に来る度に従業員の間で噂に上るがくぽへと突撃していったのがパートのおばちゃん勢。その勢いはがくぽだけではなくマスターさえも逃げ腰になるほどだったが、マスターが丁寧に「神威がくほという名前の歌を歌うためのアンドロイドである」ということを説明すると、少なくとも店員からの好奇の視線は減った。そしてパートのおばさん達は世話好きで、がくぽが何か困っていそうな様子を見るとどうしたの?と声を掛けてくれたりする。これが人の情けというものなのだとがくぽはありがたく思っていた。 「えーと、まずは野菜…」 メモを見ながら、買い物カートを押して(カートがかなり好きらしい)メモの通りに書かれたジャガイモやニンジンといった定番のカレーの具を籠に放り込んでいく。メモには茄子も書かれていて、マスターはあの妙な料理にも茄子を入れるのか…と不思議そうな顔をして一袋3本入りのお徳用茄子を籠に入れた。「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがあるくらいにこの時期の茄子は特に美味しい。カレーに入れてしまうよりシンプルに油で炒めてしょう油をたらして食べた方が美味しかろうと、がくぽは帰ったらマスターに献立の変更を頼もうと思った。 さて、野菜と肉は揃った。あと漬け物も。残るはカレーのルーである。マスターは随分詳しくメーカー名まで指示している。で、カレーのルーの棚に並んでいる商品とメモを照らし合わせていくと、値札があっても商品がなかった。売り切れということだ。むー、と悩んでいたら何かに髪の毛の先をツンツンと引っ張られている。 視線を下に降ろしてみると、その先にいたのはおそらく5才くらいの小さな女の子だった。 「おねえちゃんー」 女の子はがくぽを女の人だと思っているらしい。まあ、背が高くて声が低くて究極につるぺたな女の人だと思う人もいるかもしれない。相手は子どもなので強い態度に出るわけにはいかず、がくぽはとりあえずしゃがんで少女と目線の高さを合わせる。 「どうされた?お一人か?母君はおらぬのか?」 一番重要なことを少女に聞く。迷子ならば店員さんに相談しないとならないし、母親も見当たらなくなった我が子を懸命に捜していることだろう。 「あのねー香奈はお使いなの」 香奈と名乗った少女はあっけなく自分が何をしにここにいるのかをあっさり吐いた。しかし、一人で買い物させるにはまだ幼すぎるのではないだろうか、とがくぽは思ったが、テレビで見た番組に出てくる子どもは大体このくらいの歳の子が多かった。もしかしたら、この香奈という幼な子もはじめてのお使いなのかもしれない。 「そうか、香奈殿は偉いな。して、何を買うのだ?」 「あのねー香奈のおうちねー、きょうはカレーなんだって。で、カレーのルーを買ってきなさいって」 どうやら目的のものは同じだったらしい。そして売り場にがくぽが立っていたから声をかけただけのようだ。 「でも、香奈はおうちでどれ使ってるか分からないの…。だから、おねえちゃんのとおなじの買うの」 「え!?わ、私と同じもの?」 「うん!…あ、でもおねえちゃんおとなだから、からいからいのなの?」 いや、その心配はないぞ、香奈殿。 しかし、五歳児の味覚はよく分からないが、自分も「これがなければお前の好きな甘口でも買ってこい」と言われている身、あまり扱いは違わない。しかし、先程悩んでいたのは、全くの甘口ではなくて、マスターも多少妥協して食べられる中辛くらいにしておいたらいいだろうかと悩んでいた訳で、こういう展開が待っているとは思わなかったのでがくぽはちょっと困った顔を香奈に見せる。 |